僕らはどうしても、既に知っている自らの知識のフレームワークを当てはめて、世界や物事を捉えてしまいがちです。
「それは、〇〇でいうところ◯◯だね」というふうに。
実際、僕もそうやって社会を眺めてしまうクセがあります。人間であればきっと避けられないことでもあるかと思います。
僕が毎日書いているこのブログに、そのようなコメントを寄せてくる方々も多いです。でも、僕はこのような態度って非常にもったいないことだなあと思います。
自らの持っている既存のフレームワークに当てはめて、何かを理解した気になっているけれど、その解釈自体が、実際にはそうじゃないかもしれない。
いや、たとえ実際にそうだったとしても、今日初めてそれと触れ合うように出会うこともできるんじゃないかと思うんですよね。
そして、そのような「視座」と「胆力」を持つことが真の「学び」につながるのではないか、というお話を今日は少しだけ書いてみたいなと。
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この点、僕らは何かを新たに「学ぶ」ということは「新しい知識を仕入れること」だと思っています。
そして、その新しく仕入れた知識によって獲得できたフレームワークを用いて、目の前に広がる世界を解釈することが「学びを活かすこと」だと信じて疑わない。
その時に「自分という存在」は常に一定であって、決して変わらないという前提で世界を眺めているわけです。
でも、過去に何度も何度も繰り返し書いてきたように、学ぶということは本来「自分自身」のほうが変わることなんですよね。
以前も、養老孟司さんの話を引用しながら語ったように、「男子三日会わざれば刮目して見よ」とうような状態のほうが本当の学びに近い。
つまり、知識の入れ物である容器、そんな自分自身のほうを変えることこそが「学び」においては圧倒的に大事になってくるはずです。
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この点、内田樹さんの新刊『街場の成熟論』の説明が非常にわかりやすかったので、ここで少し引用してみたいと思います。
知的成長ということを現代人はたぶん「知識の量的増大」というふうに考えている。人間としては何も変わっていないのだが、脳内の情報ストックが増えている状態を「成長」と呼び習わしている。だから、何日経って会おうともとりわけ「刮目する」必要はない。「入れ物(コンテナ)」は同一で、「中身(コンテンツ)」が増加しているだけだからだ。でも、それは「学び」とは違う。学びというのは「入れ物」自体が変わることだかである。
(中略)
「私たち」に知的に「欠けているもの」がある。それを充塡したい。ついてはそのリストを作りたいということが「今、私たちが学ぶべきこと」という論題の趣旨であるなら、私はそのような営みを「学び」と呼ぶことができない。それはむしろ「補充(supply)」と呼ぶべきだろう。「補充」なら「入れ物」は同一性を保ちながら、「中身」だけが増えてゆくありようを正しく伝えられる。
目の前の出来事がどれだけ馴染みあるものだとしても、僕らは今初めてその事象に出会ったかのごとく対峙できるはずなのです、本当は。
ただ、このように「知識によるパターン認識をやめろ」と言われるとものすごく居心地の悪いことでもあったりする。
これは、当然のことですよね。
ひとは、そういう変化を本能的に避ける傾向にもあって、パターン認識ができない人間は、文字通り命の危険に陥る可能性が高いわけですから。
たとえば、山道を歩いていて、蛇らしきものを発見したときに、いちいちあれは蛇かも知れないし、ただの木の蔦かもしれない。もしくは自分が知らない全く新しい未知の存在Xを発見したものかもしれないと思って、どれどれ近くに寄って確かめてみようとやっていたら、蛇に噛みつかれて死んでしまう。
だったら、まずはパターン認識をして「あれは蛇に違いないだろう」と断定して、少しでもその共通点を見出した時点で、避けることができていれば、身の安全は確保できたわけです。
これと似たようなことを日常生活の中でも淡々と行っている。
人類が、このカオスな世界を生き延びるために身に着けたものすごく合理的に身に着けた特性だとも言えそうです。
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でも、むずかしいことは、それだといつまでたっても本質的には学べないんです。
今この瞬間に起きていることは、自分が文字通り「死ぬ」ことにつながることかもしれないという目線で、世界を眺めることができるかどうかなんですよね、本当は。
その視座こそが、自分を新しい世界へと連れて行ってくれるための一番重要な要素でもあるわけです。
ここが本当に大事なポイントだなあと感じます。
どうしても僕らは、何か稀有な知識や体験こそが、自らを”外側から”成長させてくれる唯一のものだと思い込んで誤解してしまっている。
もちろん、そのような稀有な経験が、自らを新しいステージへと連れて行ってくれることがあることも間違いありません。
わかりやすく人間の成長過程でいうと、家庭から幼稚園へ、幼稚園から小学校へ、そして高校から大学へと進むたびに、自分の容器自体を変えていくことをしなければ、たぶん新しい環境下では生き残ることができなかった。
その経験から、今までの成長はそうやってアップグレードされてきたのだから、これからも外部の環境的要因を変えることで成長できるはずだと。
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でもそれは、ただ単にそういう稀有な経験が、自分の容器の方を変容させる可能性が過去に高かったというだけです。そして、大人になればそのような外部的要因の成長は必ず減っていきます。
だからこそ成長意欲に果敢なひとほど、海外だったり大きなビジネスだったり、何か自分自身を本質的に外側から変えてくれるかもしれないものにドンドン飛びつくわけです。
でも、それでも、どこかで必ずパターン認識を探してしまう。「これは、〇〇でいうところの〇〇だな」と判断してその前提で行動をしてしまう。
自分の視覚や聴覚に入ってきたものに対して、そうやってバイアスをかけてしまうわけです。
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じゃあ、なぜ、そうしてしまうのか。
そうすることで、圧倒的に決断が早くなるからですよね。つまり、そうやって「ビュリダンのロバ」状態から脱出することができようになる。
さらに言えば、そうやってバイアスをかけることによって、現代社会において貴重資源だと思われているお金と時間、つまりそのコスパ・タイパが圧倒的に良くなるからなのです。
目の前に立ち現れること、ひとつひとつを丁寧に判断していたら、どれだけ時間とお金があっても足りるわけがないですから。そして思考のリソースだってドンドン持っていかれる。
それは圧倒的な真実であるから、なるべく未知であってもパターン認識をして自らを変えようとはしないのは当然のことなんです。
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でも、そこに本当に大きな大きな落とし穴が存在する。
そして、このような落とし穴があることを理解していたからこそ「直に見る」ことの重要性を、柳宗悦は民藝運動の中で説いていたわけですよね。
果たして本当に目の前にあるものは、あなたがバイアスをかけて判断しているような「下手物」なのかと、改めて僕らに問うてくれているわけです。
「いやいや、そうじゃないだろう」と。
それはあなたがそういうバイアスで見てしまっているから、そう感じるだけであって、つまりそれはおまえたちの思い込みだと。
さらに言えば、そうじゃない可能性を持って直に見ないと、おまえは一生、おまえのままだぞってことを強く僕らに教えてくれている。
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最後にまとめると、今日、自分の目の前で起こることが、自分という人間、その容器の方をガラッと変えることになるかもしれない、そのような視座で常に生きていきたい。
具体的には自らの目の前で起こったことに対して、「これは知っている、◯◯でいうところの◯◯だ」と思った瞬間に、その発見自体を一旦グッと飲み込んでみて、今初めて出会ったかのように直に見ようとしてみること。
繰り返しますが、これは本当にものすごく居心地が悪く、生きづらいことです。
バイアスをかけたほうが、人間は生きやすいことは間違いない。でも、一旦飲み込むことと適宜適切なバイアスをその都度かけることは、必ず両立できると僕は信じます。
そして、その「視座」と「胆力」の両方が揃って初めて、自らを「真の成長」や「学び」へとを導いてくれるのだろうなと。
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このWasei Salonも、その視座と胆力を持ち合うためのコミュニティであり、共同体でありたいなあと思います。
自分や世間一般のフレームワークから外れて、改めてゼロから問い直すという作業は、会社や学校、家庭では絶対に求められない姿勢であり、なんならウザがられる姿勢そのものですからね。
「それを大切にし合おうよ」と声がけをし合うようなアジールが必ず必要になってくるはずです。それがこの空間でありたい。
みなさんがほんとうの意味で「学び」を得るために。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2023/10/03 16:59