最近、戦争についてよく考えています。
イスラエルとガザの戦争から1年ということもあり、最近は戦争の報道が多いのは一つの要因。
また、映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観に行ったことも、かなり大きいと思います。
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そんな中、SNS上でも非常に話題になっていたNHKスペシャル『正義”はどこに ~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル~』を観ました。
本当に凄まじい内容。
東畑開人さんも「すごい番組だった。平和を求めるからこそ戦争する、という現実があることを教えてくれる。理性と言葉は常に感情を後ろから追いかけていく」というコメントと共に紹介されていましたが、
まさにそのような内容で、これを観ると、決して対岸の火事や他人事ではなく、明日は我が身だなと思わされる。
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一方で、この番組を観ながら、こんなにも戦禍の映像が、テレビ用に耐えられる画質で溢れんばかりに用いられていることも、本当にすごい時代だなと冷静に思ってしまう自分もいました。
戦禍の中で子どもがギャン泣きしている映像を、ゼロ距離で撮っているのは誰なんだろう?親なのかな?と思うぐらいには、カメラの被写体よりも、その撮影者の方が気になってしまう。
『シビル・ウォー』の主人公が戦場カメラマンだったことも、大きいとは思います。
デモや対立現場での緊張感ある映像なんかもそう。録画している動画の中に、相手陣営でも録画しているひとの映像が残っている。プロではなく素人が撮っている。
これを観て、まさにナラティブ戦争だなあと思ってしまいます。
スマホとSNSの普及が、当事者主義と物語優位へと変化させる。
きっと、今話題の「ケア」の文脈が今これだけ語られるのもやはり、昨今の戦争の報道は決して無関係ではないんだろうなと思わされます。
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思うに、最近のNHKスペシャルは、間違いなく視聴率よりもSNSでのバズのほうを意識している風潮があるよなあと。
そしてそれを狙うときに、「ナラティブ」から生まれる当事者性こそが、人々のSNSでの口コミを生み出すということも、すごくはっきりと理解している印象もある。
そこをハックしにかかってきていることは、なんだか手に取るようにわかるようになってきた気がします。
これは決して制作者側に悪意があるというよりも、NHKの中でつくっているひとたちがより多くのひとに届けようとするときに、何かしらの指標があるはずで、Twitterのトレンドに入ることを明らかに意図しているし、そのノルマも明確に課されているはず。
で、そのためのノウハウも社内でだんだん蓄積されてきているのが現状だと思います。
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それぐらい、ひとが傷ついているというナラティブ、特に子どもを中心に人畜無害の弱きもの、その悲惨な画は吸引力がものすごく強い。
この番組を見せられて、イスラエルを悪だと思うな、ということのほうがむずかしいなと思います。被害者と加害者が、明確な物語がそこに描かれてある。
「個人的なことは、政治的なこと」という言葉が示すように、人々をデモに駆り立て扇動し、感情的に動かす力が、ナラティブにはある。
言い換えると、ひとりの人間の物語にフォーカスされると、それぞれの正義があると思いながらも気持ちが、グッと被害者側に偏る傾向にあるんでしょうね。
このようなひとりひとりの物語が、現場では無数に起きているというその事実それ自体が、視聴者に強い絶望感を生み出すということなんだと思います。
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もちろん、くれぐれも誤解しないで欲しいのは、僕は変わらずにイスラエルのガザへの侵攻は今すぐにでも止めるべきだと思っています。
ただ一方で、もしスマホで撮影されたこれだけの当事者目線の動画がなかったら、世界はこんなにもガザに肩入れをしたのかは、冷静に考えたい。
あなたはこれらの映像を観る前にも、同様に今の反戦気分を訴えることができましたか?と問うてみたい。
起きていることは、これまでの中等の戦争とも似ているわけですからね。ただスマホで撮られた臨場感ある映像を見せつけられたかどうか。
そこで変化があると思うなら、きっとそれはありとあらゆるスマホの映像が編集されて、ナラティブに当てられている紛れもない証拠だと思います。
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で、現代の特殊性というのは、そんな個人のナラティブから生み出された素材を、いくらでも、見せたいように編集できてしまうことだと思います。
昔なら、個人の記録媒体が本当に限られていたからそれはむずかしかったこと。事後的に庶民の日記などを調査して、事後的に発掘するしかなかった。
太平洋戦争で言えばそれこそ、花森安治たちが編纂した『戦争中の暮しの記録』みたいなかたちで、現場にいた人々の想いが事後的に出版されるのを待つしかなかったわけです。
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でも今は、そうじゃない。
リアルタイムでいくらでも溢れ返っていて、そこら中に落ちている。あとはそれをどうつないで見せるか、です。
で、これは以前も書きましたが、今のこのような形の報道に慣れすぎてしまっているせいなのか、昨年、東日本大震災津波伝承館に行ったときに「あっ、これしか映像がないんだ!」て僕は心底ビックリしました。
個人的には、もっと映像資料があると思っていたから。
それぐらい、今と昔では映像資料が大きく異なる。たった10年ちょっとにもかかわらず、それぐらいの意識の差が生まれている。
当然、それよりも更に前の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件も、テレビ局のカメラだけ。何度も観たことがある映像が、何度も繰り返し放送されるわけです。
そして、当時の被害者の聞き込みをした村上春樹さんの『アンダーグラウンド』のようなテキストの資料が非常に貴重なわけですよね。
実際、先日放送されていた『映像の世紀』の中でも、貴重な当事者の声として、何度も本書が引用されていました。
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でも今は、本当にスマホ1台あれば、目の前で悲惨なことが起きて、絶望のどん底の気持ちをいくらでもSNS上に”当事者の声”として発信できる。写真や動画も取り放題で、その悲惨な現場を世界に対して発信できる。
直感的にパッと発信できてしまう。
その感情的なライブ感のような発信がまた、人々を無性に引き付けてしまう。(ここに人間はまだまだ抗えない)
で、その素材さえあれば、世界の優秀なテレビマンたちが、世界的な賞を受賞するようなドキュメンタリー番組に仕立て上げることができてしまう。
もちろん、被害者や弱者側もそうだけれど、悪者側だってすぐにナラティブをつくりだせる。極右団体とかの「悪どい感じ」なんかも、お手のものだと思います。
『映像の世紀』でもよく語られるように、第2次世界対戦の時代には、お茶の間のみんなで聴くラジオや、みんなで観る映画に当時の人々は右往左往させられたわけですが、今はそれが各人の手元に直接やってきているから、より一層厄介だなと思う。
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何度も繰り返しますが、もちろんこれは映像を作成している現場の発信者たち・制作者たちにも、悪意はないと思います。
より多くのひとたちに届けたいだけ。みんながそれぞれが自分の置かれている状況を必死で説明しようとして、SNS上でウケの良いナラティブ化をしているだけだと思います。
個々の発信は明らかな善意です。
ただし、それが全体として集まると、負のスパイラルに陥る可能性もあるという話をしたくて今これを書いています。
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結局のところ、これは受け取る側、リテラシーの問題なんだろうなあと思います。
ナラティブ至上主義の情報が、無限に自分のところに届いてしまっている、そして、自分のケアの感情がこれでもか!と掻き立てられてしまっている。
それに気がついて、自覚的になれるかどうか。
感情だけではなく、理性で考えてから情報発信や次の行動に出ても、決して遅くはないわけですから。
ナラティブ重視と、そこから生まれるケアについての吸引力の強さをちゃんと自覚して、発信側としての矜持もしっかりと持つことは、決して忘れたくはないなと。
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きっと、次に世界を巻き込んだ「何か」が起きるときに、僕らが恐れるべきは「ここ」だと思うのです。
エビデンスデータ至上主義も同様にかなり危ういし、小賢しい人間がハックばかりし続けるディストピアではあるけれども、それは良くも悪くも、ハックにとどまる。
自分にとっての実利がなければ、そのひとたちは動かない、動くのを止める。常にどこか冷めてる。理性が冷静に分析してしまう人間的な仕組みがある。
でも、ナラティブによって動いてしまった情動は違う。ケアとしての愛のためなら、どこまでもひとは過剰になれる。
中島みゆきが「空と君とのあいだには、今日も冷たい雨が降る、君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる。」と歌っていたけれど、本当にそう思う。
ナラティブに共感した「君」へのケアのためなら、能動的、自発的に悪に落ちる覚悟ができてしまう。
その時には、きっとまた全体主義にまっしぐら。明日は我が身だなと強く思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/10/08 20:52