先日、YouTubeで岡田斗司夫さんの「かぐや姫の物語」の解説動画を観ました。

僕は、この高畑勲監督の「かぐや姫の物語」がたぶんジブリ作品どころか、すべての映画の中でも最も好きな作品だと言っても過言ではない作品になっています。

でも一般的な評判は、あまりよろしくはない。そして、実際に興行収入も振るわなかったはずで、制作費用も回収することもできず、確か最終的に赤字だったはずです。

で、実際この動画のライブ配信時に行われたアンケートでも、非常に残念な結果に。

ただ、そのアンケート結果を踏まえて、この映画を解説する中で、岡田斗司夫さんがおっしゃっていたことで非常に腑に落ちる表現がありました。

それが、「宮﨑アニメはおもしろいことに責任を持ってくれる。でも、高畑勲作品はおもしろいことには責任を持ってくれないんです。ただし、本物であることには責任を持ってくれる」と。

さらに「これはディズニーランドと、ゴシック建築や神社の違いに似ている。ディズニーランドのつもりで神社に行っても何も面白くもないですよね」と語られていて、なんだかこれは本当に腑に落ちるなあと。

アニメ映画を見に来た観客に対して、エンタメとしてしっかりと楽しんでもらおうとサービス精神旺盛な宮崎駿に比べて、徹底的に本物にこだわりつづける高畑勲。

だから観客は、肩透かしを食らう。

観客はアニメ映画は、当然のようにエンタメを与えてくれるものという先入観を持っているから、何も面白くないじゃないかと言ってしまう。

それゆえに、余計につまらないと感じられてしまうジレンマが、そこにあるというような趣旨のことを語られていて、これは本当にとても上手な比喩表現だなと思いました。

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で、いま現在、創作活動している人たちは必ず思うはずなんです。

じゃあ、自分だったら「エンタメと本物」どちらの責任を取りたいのか。つまり宮崎駿のような作品づくりをするのか、高畑勲のような作品づくりをするのか。

それが究極の選択のようにも思えてくる。

当然、ビジネスとして成功をしたかったら前者を選ぶべきであって、実際にそれで宮崎駿もディズニーも、ビジネスとしては大成功をおさめている。

一方で、歴史の中には本物のほうが残る。伊勢神宮や出雲大社ががそうであるように。そしてきっと、高畑勲作品もそうなるはずで。

宮崎駿作品は意外と早く忘れ去られるかもしれないけれど、高畑勲は美術やアートの歴史の中に残る作品になって歴史の教科書にも掲載されるのだと思います。

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また、エンタメを追求していると、自分がやっていることがあまりにも表面的にも思えてくる葛藤も徐々に生まれてくるはずです。

特に、本物を徹底的に追求している人間が身近にいると、そのように感じるわけですよね。実際、宮崎駿の高畑勲に対するコンプレックスなんかは尋常じゃないわけです。

自分のほうが世界的な認知も、興行収入も、何もかも数字やデータ面においては圧倒的に勝っているのに、いつまでたっても高畑勲を抜くことができないと苦しんでいる。

そして、未だに高畑勲の呪縛の中にいる。

それは今年NHKで放送された『宮﨑駿と青サギと…~「君たちはどう生きるか」への道~』というドキュメンタリー番組内でも描かれた通りです。

だから長編映画監督を引退するといった宮崎駿が、その呪縛とどう向き合うかという『君たちはどう生きるか』という長編作品までつくってしまうわけですから。

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それは、僕ら一般人の視聴者からしたら、どちらも素晴らしい作品じゃないかと思ってしまうんだけれども、でもそれぐらいエンタメと本物においては雲泥の差がある、コンプレックスになりえてしまうものであるということなのでしょう。

ちなみに、その両者の間にある「エンタメと本物」の明確な対象性から生まれるバチバチや衝突を、上手く昇華(アウフヘーベン)させたのが鈴木敏夫さんだということでもある。

この力学は、活きるに値する、と。

それはそれで、本当にものすごいところに目をつけて、エネルギーを上手に「スタジオジブリ」という一大ムーブメントどころか思想運動にまで引き出してしまったなと思うけれども、その話にいま触れ始めると、また別の話になってしまうので、この話はまた別の機会に。

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で、話をもとに戻すと、エンタメ性を追求するのか、本物性を追求するのか。

さて、困ってしまいますよね。

この点について、生成AIに相談してみると、本当にわかりやすく判で押したように「バランスが大事」と答えてきます。

両極端の視点を与えて「どちらがいいですか?」と聞けば、どちらも重要であり、真ん中を求めることが大事だと繰り返す。

でも、言わずもがな、それが一番凡庸なものづくりになる。

語弊を恐れずに言えば、いちばんつまらなくなる。どこにでも転がっている作品になり下がる。

そんなことをAIに対して更に詰め寄ってみると「要するに、バランスを取るということは、単に平均的で無難なものを作るのではなく、独自性を持った個々の要素を際立たせつつ、それが調和するように全体をデザインすること」と返してきました。

わかったようなわからないような回答です。

で、実際の創作現場においては、このようなわかったようなわからない”中庸”を取るか、どちらかに振り切った、両極の原理主義的なアプローチを取るのが一般的だと思います。

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でも、ここで全部ひっくり返すようなことを書いてしまうのですが、

結局のところ、エンタメを追求する者も、本物を追求する者も、同じ山を登っているのではないでしょうか。

言い換えれば、「エンタメと本物」という対立的な見方をしているのは、僕たち観察者側、つまり人間の問題なのかもしれません。

このあたりの説明は本当に難しいなと思うわけですが、無駄に分けて考えたくなるのは僕ら人間の特性なのかもしれない。

岡田斗司夫さんの批評は、エンターテインメントと本物の対比においては非常にわかりやすく、素晴らしい言語化だと感じます。

しかし、対象の特徴とは何かをそうやって理解しようとする人間がいるから、そのような言葉で「分ける」感覚が生まれてくるだけであって、もともとはひとつのものかもしれないのです。

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この点について、先日読んでいた鈴木大拙の『仏教の大意』という本の中に、とても興味深い表現がありました。

少し引用してみます。

霊性的世界というと、多くの人々は何かそのようなものがこの世界のほかにあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間に対する現われ方だといってよいのです。
(中略)
すなわち人間が一つを二つに見るのです。これがわからぬときに、実際二個の対立せる世界があると妄信するのです。われらの生活しているという相対的世界と、その背後にある(仮りにそういっておく)のとは、唯一不二の全を形成するものです。これを離して、各自にそれぞれの特別な価値があるということにすると、両方とも真実性を失います。


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この感覚が、現代を生きるうえで、めちゃくちゃ重要な観点だと思うんですよね。

特に生成AIのようなものが広く普及していく中で、あるいは岡田斗司夫さんのような優れた批評家やオピニオンリーダーの話を聞く際には、この点に注意を払う必要があるのだと思います。

もちろん、僕の日々書いているこのブログを読む際にもぜひとも注意して欲しい部分。

鈴木大拙は「すでに一真実の世界だというなら、どうして二つの世界があるように話されるのであろうか。それは妄想の故であります。」と語り、

更には「人間は元来知性的にできているので、われらは何かにつけ理窟づけをします、そうしてこの理窟づけの故に、一つが二つに割れるのです」とも言います。

これらはとっても大事な視点だなあと思います。

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で、だからこそ、エンターテインメントと本物がそれぞれ異なる対象に思えるときもあるのですが、実際にはもともと一つのものだと言えるかもしれません。同時に、全く別物だとも言えるわけです。

そして、そのどちらの見方も正解なのです。

いま僕自身が、言葉では説明できないことを説明しようとしてしまっているから、余計にややこしい話になっているような気がしてしまいますが、生成AIの時代において、こうした二元論を超えた視点はますます重要になると思います。

AIは、既存の情報を元に「言葉」を用いて「平均的」な回答を生成しがちですが、真の創造性自体はそうした「平均」を超えたところにあるはずですから。

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最後にまとめると、今日書きたかったことは、両極の間のバランスは、それらの真ん中を取ることだけではない、ということです。

あとくれぐれも誤解しないでいただきたいのは、言葉で分ける感覚は、何かの本質を理解する上で本当に有用であり、理性の働きとして本当に大事なこと。「学び」や「発見」は必ずここを経由する必要がある。

でも、それらを再統合していくプロセスも、その分けて理解していく作業と同様に、とっても大切。

その重要性を問いてくれているのが、今日ご紹介した鈴木大拙の話であり、以前ご紹介した吉本隆明の「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地すること」というあの言葉にも、見事につながる話なのかなとも思っています。

そして大AI時代において、人間に残されている役割、その最も大切な役割のひとつでもあるような気がしています。ここを理解しないと、たぶんAIによって見事に置き換えられてしまうはず。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていいたら幸いです。