「ブルシットジョブはしたくない、本質的なことしかしたくないというのはよくわかるなぁ、と思いながら、そこに潔癖になりすぎてしまうのは少し危険だよなぁと同時に思ったりする。」


このほしまどさんのつぶやきの内容、とても共感しました。

本来、日本の会社っていうのは「無駄なこともする」というための公器だったはずなのに、2000年代に入って、リストラとか非正規雇用とか、IT化が進む中で、一気に「生産性」の方に偏った印象があります。

実際、80年代〜90年代以前のドラマや映画、小説なんかを読んでいると、インターネットもないため、ものすごく牧歌的というか、ほしまどさんがおっしゃるような「しゃーない」によって、お互いが補い合っていた印象を受けます。

でも、企業の成長が止まると、そのような寛大さも社内からなくなっていくということが、とても良くわかったのが、この失われた30年で、日本の多くの企業が気付かされたことだと思います。

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みんなが余裕がなくなっていくからこそ、より一層、コスパとタイパなどの「共通のものさし」で測れるものによって生産性の低いものに対して、白羽の矢が立つ。

そして弱い立場にいる人たちや、共通のものさしでは測れない仕事をしているひとたちからドンドン風当たりが強くなっていく。

「自分たちがこんなにも頑張って切り詰めて生産性に対して寄与しているのに、あいつらはコスパの悪いことをやっていて、けしからん!」となるわけです。

でも、それは企業の成長が鈍化し、生産性自体が鈍化している何よりの証拠でもあるわけですよね。

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じゃあ、以前の日本の会社がそのような「公器」の役割を果たしていたのだから、また以前のような成長状態になんとか立ち戻って、寛容さを取り戻すことが最善策なのか?

ここが問題となるかと思います。そして実際、それを目指して多くの企業がいま頑張っているのだと思います。

とはいえ、また似たような余裕を取り戻そうとするために、なんとか経済成長を目指そうとすると、さらに「生産性重視」になってしまって、余計にその目的から遠ざかる、そのようなジレンマが現代の日本には明らかに存在しているなあと思うのです。

ここに今、ものすごく大きな落とし穴があると感じています。

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当時のように、みんなが居心地が良い場所をつくるためにと誰もが頑張っている。

決して、ギスギスした環境をつくりたいわけじゃない。誰もそんなギスギスした職場なんて望んでいないはずです。

これはきっと、誰も戦争なんかはしたくなくて、本当の目的は戦争を一刻も早く終わらせて、世界全体を平和にしたいからこそ、早急な解決策を欲してしまい「戦争」という手段を用いてしまう、というジレンマなんかとも、非常によく似ているなと思います。

今の、会社組織においては間違いなくこのジレンマが存在する。

そして、「欲しがりません、勝つまでは」という話にもなるし、それに対して少しでも異論を唱えようものなら「非国民!」というようなレッテルまで貼られてしまうわけです。

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あとは、例えば最近、土田さんがサロン内のつぶやきに書いてくれていた「仕事を進める上で、やりやすさや滞りのなさを最優先にする人と仕事すると大体モチベーションが下がっていく」という話なんかもきっとそうで。

僕自身も、もともと「一見無駄に見える余白がある」仕事みたいなものを、自らの会社を起業してその中で実現したかったんですよね。

でも、それは立場的にむずかしいということも実際問題としてよくよく理解もできました。どうしても、ダブスタになってしまう。僕には、そのようなダブスタが耐えられなかった。

もちろん、それができている企業もあると思うので、あくまで僕が力及ばずだったことだとは思いつつ、外からは余白があるように見える企業もその内実は「余白ブランディング」みたいなものであって、中は結構殺伐としていたりもする。

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大事にしたいものがありつつ、それを大事にするために「経済戦争してください、勝てば報われますから、それまでは我慢してください」といわなければいけないジレンマ、それに耐えられなかった。

その壁にぶち当たって、僕は会社自体を大きくすることよりも、コミュニティをつくり、それをちゃんと維持継続、発展させていこうと考えるようになりました。

今振り返ってみると、この決断は僕にとってかなり大きな転換点だったと思います。

当時は、ここまで明確に言語化できていたわけではありませんが、会社組織の発展の先には自分の理想とする世界が訪れないどころか、むしろ一番望まない、生産性だけを過度に追い求めるブラック企業が誕生してしまうのではないかという危惧があったのだと思います。

現代の会社の基準では、どうしてもそのような構造的になってしまう。

そのために、僕は大きく迂回するルートを探す必要があると感じたのです。

つまり、一見無駄に思える有意義なことをどうすれば回復、復興できるのか、その答えを探すために、大きく迂回する必要があるんだろうなあと。

そして、コミュニティづくりにたどり着いて、今このようにみなさんと一緒に「はたらく」ということの本当の意味で大事なことを考えて、その率直な問いを書き込んでもらえる場をつくることができました。

まだまだ、それを共に問い続けることができているというだけではありますが、僕にとってはこれがものすごく大きな一歩なのです。

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過去に何度も書いてきたように、どうしても現代の効率の良い「消費」というのは、サブスクみたいな形で、とにかく手元にコンテンツだけが届き続ける。

でもそれって、より一層「本質」からは遠ざかってしまっている。

本当はそうじゃなかった、たとえば「音楽」を媒介にした人と人とのつながり、そこにこそ喜びがあったはずで。

逆に言えば、どうしても商品それ自体の資本主義のハックに向かっちゃう。それぐらい資本主義の構造の圧力や、構造的要因から受ける影響は大きいのだと思います。

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で、だとしたら、もっと根本の部分から問い直して、それを現代の社会の中で実現するための、ほかの方法を探ることがとっても大事だなあと思います。

そしてそれを長期的に実現していくためにはどうすればいいのかを、ド真剣に考える必要があるなと思います。

なぜなら、短期でひっくり返そうとするとドンドンと先鋭的、破壊的、ハック的になっていくから。

昨日、ゆうとさんと一緒に「クリティカルビジネスについて考える」の対話会を開催しましたが、僕はこの山口周さんの言葉、ものすごく現代にマッチしていて的確な言葉だなと思いつつ、正直どこか腑に落ちない感覚もあります。

企業自体が、アンチテーゼを掲げて顧客自体を批判し、自分の理想とする強烈な世界観を顧客に対して啓蒙し、そこに共感させようとする流れに違和感が拭えない。

そうじゃなくて、もっと中長期に変革していくことはできないものなのか。

メインストリームに対して石を投げたり、メインストリームの中に入り込んでハックしようとするのではなく、愚直にあるべき世界観を目指していくスタイル。

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山口周さんの本『クリティカル・ビジネス・パラダイム』の中には、ブルネロ・クチネリの事例が出てくるのですが、まさにこのブランドと、その城下町となっているイタリアのソロメオ村みたいな状況が本当に理想的だなあと思います。

また、以前もご紹介しましたが、日本版のソロメオ村が石見銀山であり、そしてブルネロ・クチネリが群言堂さんだと感じています。

時間がかかるし、ともすれば、ものすごく反対側の道を選んでいるようにも周囲からは思われる。

でも、今求められているのは、その直進力というよりも、本当に求めているもののためにどれだけ遠回り、迂回することができるか、それを選び取る勇気だと思います。

ブルネロ・クチネリは30年以上かかったそうです。そして群言堂さんも同じく30年以上の歳月をかけて、今のポジションに至っているわけなんですよね。

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到達したい場所に、愚直に到達しようとするために、その手段のほうから柔軟に変えていくことができるかどうかが、きっと僕ら世代には問われているのはここだと思うんですよね。

見据えている世界観や、その指針である北極星を変えずに、です。

でも一度起業したりして会社を起こしてしまうと、その資本の論理の中でなんとか勝ち上がろうとして、ドンドン最初に求めていた世界観からは遠ざかることになる。

特に、数字で判断されがちなスタートアップの業界なんかは、それがものすごく顕著だと思います。

平和のためにこそ、戦争を選択するというような、一番遠ざかる選択肢を選びかねない。

今は、ただ人が目に見えて死んでいないだけ、身体が傷ついていないだけ。働く人々の心はドンドン傷ついているし、心はドンドン死んでいるひとも一方で増えてしまっています。

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直進すればするほど、本当の目的のために、今を犠牲にするというジレンマがあるからこそ、その直進するということに対して、迂回ルートを選び取る勇気。

トークンエコノミーが本当に目指していた世界観を達成させるためには、枯れた技術である「コミュニティ内ポイント」を経由する必要があるのではないか。コミュニティ内の循環をつくってからトークンと接続させるほうが良いんじゃないかという話なんかもまさにそう。

どれだけ迂回ルートを辿ることになっても、自分にとって実現したかったその世界観に愚直に近づけていけるかを基準に行動していけかどうかが、これからのカギとなるような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。