東京にいると、他人が長く時間をかけて一生懸命育んで手に入れたものを、コスパやタイパよく手に入れたい、という無意識の欲望みたいなものが改めてすごいなあと思わされます。

「他人の欲望」を欲望するところまでは、百歩譲って人間の本能的に仕方ないとしても、それをできるだけコスパやタイパ良く手に入れたいという願望や執着のようなものが、半端ないなあと。

それはきっと、以前もご紹介した「花咲爺さん」の悪い隣の爺さんみたいいなもので。

たとえば、わかりやすいところで言うと、パタゴニアのようなブランドの長い時間かけてブランドのファンと一緒に育んできた商品を、UNIQLOのようなメーカーが丸パクリするような状態なんかは、まさにそうかもしれません。

でも、言うまでもなく、UNIQLOのソレは、patagoniaのソレじゃないですし、完全に似て非なるもののはずなんですよね。

本来であれば、ここに自覚的にならないといけないはずなんだけれども、見た目やデザイン、その表面的な部分ばかりを追い求めてしまうから、同じものがより安く、より簡単に手に入れられれば、そちらに流れてしまうということなのでしょうね。

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これはきっと、自分自身でその商品の本質的な価値とは何かを考えたことがないから「こちらよりも、こちらのほうが優れている、総合点が高い」と専門家風のインフルエンサーに言われると、なんだかそれが良いものだと勘違いしてしまい、誤解してしまうということなんだと思います。

でも本来、そこにはまったく思想性が存在しなければ、中身自体は空っぽなわけですよね。

中身は空っぽでもいいから表面的に見た目のいいものが欲しいと思われてしまっているのが、現代の東京を中心とした価値観のような気がしています。

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じゃあ、ここでの悪者は一体誰なのか?

一般的には、そんな議論になるかと思うのですが、きっとここに悪者なんて存在しない。

表面上だけを真似をして、格安で提供してくれるUNIQLOやニトリ、SHEINののような企業が消費者の足元を見ているから、彼らが悪いのかと言えば、もしかしたらそうとも思えなくもない。

もちろん僕も、メーカー側はメーカー側で、それは倫理的にどうなんだと思う部分もありつつも、企業としてはやっぱり消費者が欲しがるものをただ安価に提供しているだけだとも言えるわけですよね。

逆に言えば、UNIQLOやニトリ、SHEINがたとえ廃業したとしても、消費者が求めている以上は、第二の同様のメーカーが現れるだけとも言えそうです。実際、2番手3番手の似たようなメーカーは常に、追随しているわけですから。

そして、そのような新たなコスパ・タイパが良いものが出てきた瞬間に、大手メディアから個人のインフルエンサーまでが、みんなでこぞって紹介をしてしまう。それは、PVと案件としての報酬欲しさに、です。

だから、これはもはや、誰が悪いという話ではない。

強いて言うなら、やっぱりひとりひとりの消費者側にそれぞれの小さな責任があるんだと思います。

だとしたら、より血みどろの争いを繰り広げられるよりは、今の構造ぐらいがまだ救いがある状態であるとも言えそうです。

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で、僕はこの「より安く、より短時間のあいだに表面的なものを手に入れたい」という感情は一体何なのか?そのことに強い興味と感心があります。

いわゆる『千と千尋』のカオナシの手から出てくる砂金に群がろうとするようなあの態度について。

本来であれば、そうではなく、ゆっくり時間をかけて唯一無二を自ら育み、手に入れることのほうが圧倒的に重要なことのように思えるはずなんです。

でも、毎日の生活に追われて、そんなことを考えていられないってことなのでしょう。

まさに、ミヒャエル・エンデの『モモ』の中に出てくる灰色の男たちに煽られて、全く生活自体が変わってしまった街の中の登場人物たちと同様なのだと思います。

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きっと、周囲や世間との見た目や形式的な乖離の状態に耐えられなくて、コスパとタイパが良いものに大して欲しいわけでもないのに、それに手を出してしまうということなんだと思うんです。

で、たぶんそこにあるのは、ある種の「正しさ」から発露してくる願望のようにも思うのですよね。

具体的には過度な「平等意識」や、ずるいとか不公平だとか、そういう社会主義的な発想でもあると思います。

「あなたたちのそんな平等原則を満たしてくれるような、コスパやタイパがいいものがここにありますよ」と、私企業に完全に足元を見られているわけです。

そうすると、先日も書いた「世間一般的な普通」を満たしてくれるものとして、みんながそれに一斉に飛びつくわけですよね。

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で、僕がこの4年近く、日本全国を旅しながら思うのは、格差が広がることの一体何が一番の問題なのか?ということです。

様々な地域を訪れながら、それを本当に丁寧に考えてきました。

そこでいま思うのは、格差それ自体が問題ではないと思っています。

この格差という状況が生み出す、ある種の無気力感のようなもののほうがよっぽど問題に思っています。

つまり、相対的な貧困状態が何よりもいちばん人をダメにする。

実際にそのエリアに住んでいるひとたちが、このブログを読んでいる可能性があるから、具体的な地名はあげないですが、現代は「東京」と一括りに語れないぐらい、かなり所得格差が広がっているような状態です。

で、東京のなかでも比較的に所得が低いエリアに行くと、そこはかとない負の空気が漂っているなあと強く感じます。どうせ、自分たちは何をしてもダメなんだというような。

そこには「学習性無力感」のようなものが、ありとあらゆるところから漂っているなあと感じられるのですよね。

ちなみに、この学習性無力感とは「自分の行動が結果を伴わないことを何度も経験していくうちに、やがて何をしても無意味だと思うようになっていき、たとえ結果を変えられるような場面でも自分から行動を起こさない状態」を言います。

二匹の犬が床に電流を流されて、それに慣れきっている犬は、その電流が流れているところからもはや飛び移ろうとはしないという実験が有名ですよね。

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たぶん、東京の比較的収入が低いエリアと、いわゆるローカルの地方都市なんかの平均所得を比べたら、きっと同じぐらいの年収の人々が集まっているはずなんです。

でも、ローカルの方が、そまだこまで学習性無力感を感じることはない。じゃあローカルに行ったときに、何が異なるのかといえば、正直何も変わらないとは思います。

それは、単純に「知らぬが仏」という状態でもあるのだと言えそうです。

ただ、もし何か異なるものがあるとすれば、そこにはちゃんと歴史があるということ。

継がれてきたものには、見た目やデザインのトレンドは存在しないかもしれないけれど、中身はしっかりと詰まっている。ここに本当に大きな違いがあるなあと思います。

京都や奈良なんかは非常にわかりやすいですが、歴史的な風雪に耐えてきたものの強みは、中身がちゃんと詰まっていること。逆に言うと中身があるから、残ってきているとも言えそうです。もちろんそれは、地場産業にも言えることです。

あとは、海や山などの自然が近いっていうこともあるとは思います。自然のもたらす力は改めて凄いなあと思わされる。そもそも表面と中身の乖離なんてものが、自然の中には存在しないですからね。

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東京の比較的貧困に近いエリアに行くと、中身がからっぽの無機質なものばかりに囲まれていった結果、自然と気持ちが落ちていってしまうのは僕には当然のことだと感じる。

僕も、そのようなエリアに長く滞在していると、自らの思考がみるみるうちに変化していくのが手に取るようにわかります。自ら身体性を通して強く体験できてしまう。

今日は、あまりまとまりがある話ではないですが、最近思っていたことがゆるやかにつながっていたなあと思ったので、その関係性が曖昧なまま、ここに記載してみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。