先日、東浩紀さんの新刊『訂正可能性の哲学』を読み終えました。

この本が、本当におもしろかったです。

このブログを日常的に読んでくださっている方々には、ぜひとも一度読んでみて欲しいなあと強く思います。

広義の「家族」の概念や、そこからつながる共同体の話、またルソーの一般意志の丁寧で一筋縄ではいかない解釈の仕方など、本当に多岐にわたる話に強く感銘を受けたのですが、

何よりも、一番強く印象に残っているのは、やはりタイトルにもあるように「訂正可能性」そのものについてのお話です。

現代社会の中における「正しさ」の基準を用いて過去を断罪さえすれば、人々の価値観がアップデートされて理想的な社会がやってくるという風に信じている人たちは、現代の世の中に本当に多い。

でも、そういう人たちは、何か大きな誤解をしてしまっているなあと思います。

早速本書から少しだけ該当箇所を引用してみたいと思います。

むろん、正しさを求めるのは大事だ。
けれども、あまりに長いあいだその言葉が便利に使われてきた結果、人々はむしろ本当の正しさとはなにかを考えなくなってしまった。いまの基準で過去を断罪さえすれば、それが正しさなのだと信じるようになってしまった。いまや多くのひとが、かつて世界は性差別と人種差別に満ち、マイノリティや被害者の声は封殺されていたが、みなが意識を変え、アップデートされた「正しさ」を導入しさえすれば、明るい公正な未来が訪れるはずだと単純に信じている。少なくともそうじるふりをしている。これもまたリセットの幻想である。
けれども、ぼくは、そのような「正しさ」の理解は哲学的に誤っていると考える。正しさを追い求めることが誤っているわけではない。それは正しいに決まっている。
けれどもその正しさは、いま信じられているほど強固で絶対的なものではありえない。正しさの基準は時代や文化に応じて驚くほど変わる。そもそもそのようなものだからこそ、過去の過ちを正す運動が可能になっている。


さて、ここでこのブログでは珍しく、ものすごく僕の個人的な体験の話を書いてみたい。

今から約10年ほど前、僕がまだ20代前半の頃に、五反田にあるゲンロンカフェに東浩紀さんと川上量生さんの対談を、お客さんとして聞きに行きました。

そのときに、現場で語られていて、特に強く印象に残っているのが、まさにこのお話なんですよね。

そのときの東浩紀さんの身振り手振り踏まえて、熱っぽく語られているシーンを、今でも昨日のように思い出せてしまいます。

そのイベント終了後、Twitter上で東さんと直接やりとりしたからこそ、きっと強く記憶に残っているのだと思います。(当時はまだそういう牧歌的な時代でした)


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あのときは「正義とは、何か明確な正義の状態が存在するわけではなく、その正義が連綿と塗り替えられているような状態、その運動のようなものが、正義と呼べるような状態なんだ」というふうに語られていて、この話が、若いころの僕には本当に目からウロコが落ちるような表現でした。

そして、いま考えると、これこそまさに訂正可能性の話そのものだったのだろうなあと思います。

東さんからはTwitter上のやりとりのなかで「こういうのは書籍にまとめるようなものではないのです。」という風にいなされてしまったのですが、そこから、東さんが10年間以上ずっと考え続けてきて、いまこの1冊にその思考の結晶が結実していることを見ると、そのこと自体になんだか、とても感銘を受けてします。

そもそも、何かひとつのことを考え続けるということは、まさにこのような思考の胆力を必要とするものであって、本来これぐらい長い時間軸の中で磨かれて結実するものなんだろうなあと。

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僕自身、この考え方をイベントの会場で聞いて以来、本当に長い間、強く影響を受けてきた考え方となりました。

過去に何度も繰り返し自身のブログの中でこの話はご紹介してきたし、トークイベントなどでも「以前、哲学者の東浩紀さんがこのようなことを語っていて〜」というふうにこの考え方を何度も引用しながら、お話してきたように思います。

特に、このWasei Salonのキャッチコピーをリニューアルするときも「私たちのはたらくを問い続ける」として、「問い続ける」という言葉を用いたわけですが、そこに込めた想いというのも、まさにこの訂正可能性に開かれている状態を常にもたせていきたかったからに他なりません。

ポリティカル・コレクトネスのようなものが一斉を風靡して、それゆえにドンドンと生きづらい世の中になっていくなかで、何が本当に自分たちにとって大事なことなのかを常に考え続けてきました。

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さて、本書の中で、東さんは以下のように続けています。

政治的な正しさは英語ではポリティカル・コレクトネスという。コレクトネスはコレクトという形容詞の名詞形だ。そしてこのコレクトには、「正しい」という意味の形容詞とはべつに、「訂正する」という動詞としての用法もある。
だからぼくは、政治的な正しさなるものは、本当は、ポリティカル・コレクトネスではなくポリティカル・コレクティング、すなわち「政治的に訂正していく」運動として、動詞的なかたちでしか表現できなかったはずだと考える。いま正しいこともいつ訂正されるかわからない。いまのマイノリティもいつマジョリティになるかわからない。いまの被害者もいつ加害者になるかわからない。いまコレクトな発言や行為も、いつ「コレクトされる」かわからない。それこそがウィトゲンシュタインとクリプキが教えてくれたことである。政治的正しさは、政治的な訂正可能性としてしかありえないのだ。

ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。


僕自身は、まだ35年間しか生きていないですが、それでも自らが物心ついてから約20年間のあいだ、大きなことから小さなことまで、本当にありとあらゆるさまざまな「正義」が世間の中で何度も何度も塗り替えられてきたように思います。

特に、SNSが普及してからの過去10年間のあいだにおいては、本当に目まぐるしいほどに、様々な「正義」が音を立てながら崩れていき、そのたびに新たな正義が爆誕し、変化していったように思います。

この自分自身の経験を踏まえる限り、いま圧倒的に正しい顔をしているイデオロギーでさえも、間違いなく数年後には失墜していくことは本当に時間の問題だと思います。

ただ、それでもこの東さんが提唱する「訂正可能性」の考え方自体は、何も変わらない。これだけが唯一、過去10年間も変わらずにずっと正しかったなあと思います。

だからこそ、これからもこの考え方を僕は大切にしていきたい。

何よりも、自らの身体性や人生経験を伴って、本当に強くそれを実感してくることができたからです。

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ポリティカル・コレクトネスのようなものは、いつの時代においても基本的には眉唾であって、一方でポリティカル・コレクティングというスタンスは普遍であるように感じます。

自ら守り続けていきたい場や空間の在り方においても、常にこちら側にあります。

何か新しい「正義」に熱狂してしまいがちな若気の至りのようなものは、既に通り過ぎてしまった年齢だからこそ、いま強く実感できていることの一つでもあるように感じます。

逆にいえば、若い世代が外来の価値観や、新しい正義に対して熱狂的になるのは、ある意味では仕方のないことでもあるとも言えるし、それは学生運動の時代から何も変わらないこと。

本来、若さとはいつだってそういうものであるのだから、そのようなリベラリズムを掲げること自体も僕は何ひとつとして間違っていないと思います。

そして、だからこそ、その正義はいとも簡単に塗り替えられるという状況を体験してきた世代としては、何よりもその正義自体がちゃんと訂正されていく「開かれた状態」を作り続けることが、ひとつの責務のように感じています。

真の意味で、一貫性のようなものがあるとするならば、僕はこのようなスタンスだろうなあと今は強く実感しています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。