Wasei Salonの中では、「今週の問い」というメンバー全員が書き込める掲示板のようなものがあり、先週の問いは、「どうすれば、普段出会わないひとと出会えるのか」でした。
これが思いのほか、盛り上がりました。
まさにみなさんが今、興味関心があるジャンルなんだろうなあと思います。
今日は、「出会い」の変化について、いま自分が思うことをこのブログを通して考えてみたいなあと思います。
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まず、なぜこの問いがWasei Salonの中で盛り上がったのか。
それは、その「出会い」のバリエーションは世の中には増えてはいるけれど、その納得感が得にくい部分があるからなのだと思います。
「出会い」については、常にどこか「私の求めているものはコレジャナイ感」がつきまとう。
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出会い方は時代によって大きく移り変わるし、もちろん、そこに何か明確な良し悪しがあるわけではないはず。
それぞれの時代ごとの心地よさ、新しい出会いの形を求めて人々は常に、試行錯誤を繰り返しているわけです。
そして、それっていうのはイマイチ自分たちでも「本質的に一体自分は何を求めているのか」がよくわからないものだったりもする。
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この点、少し話はそれますが、村上春樹の小説はインターネットがない時代の話が多く、インターネット登場後の物語も、極力ネットを活用した物語は出てきません。
つまり出会いの要素があまり多くはない。
その代わり、性的な交わりや、暴力シーンが過剰に描かれている。
河合隼雄さんの息子さんである、河合俊雄さんの村上春樹作品批評にまつわる書籍『謎とき村上春樹─「夢分析」から見える物語の世界─』という本から、関連部分を少し引用してみたいと思います。
出会いのためにはなんらかの媒介するものが必要なようである。
そして媒介するものがない場合に、暴力や性という直接性が大事になってくる。村上春の作品に暴力的や性的なシーンが多いのは、現代における出会いというのが、儀式やコミュニティなどによる媒介を失っていったために、直接性によらざるをえないことにも関係していると思われる。
この説明にはとても納得感があります。突然の暴力や、巫女のような女性に導かれてあたらしい物語が始まっていく。
過剰なまでの性描写と暴力描写は、その儀式や祝祭的な、妙な納得感を読者に与えてくれるわけですよね。
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じゃあ、ひるがえって現代はどうかと言えば、現代はいわずもがな、スマホをインターフェースとしたSNSやマッチングアプリ、推し活が全盛期の時代です。
そして、いまここにAIが出てきて、これからはAIがより一層出会いのマッチングの精度をあげてくれることも、もう間違いない。
自分以上に自分のことを知り、他人以上に他人のことを知るAIが、両者のあいだを見事に取り持ってくれる。
「なぜ、私はAIからこのひとを勧められたのか」もハッキリとわからないなかで、実際に関わり始めると、ものすごく馬が合うという状況が生まれてくるはず。
「だからか!」という後々の発見が、無限に起きるという未来がこれから間違いなくやってくるし、実際すでにやってきているとも思います。
たとえば、Wasei Salonの存在も知らず、僕のブログやVoicyの存在も知らず、それでもAIとやり取りする中で、Wasei Salonをリコメンドしてもらって、そこから「Wasei Salonに入会しました」みたいなことも実際に起きている。
そして、ご満足いただけているご様子で、これは本当にありがたいなあと。
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「じゃあもう出会いには、事欠かないのでは?」
本当はそのはずなんだけれど、それでも満たされないものがある。
では、それは一体何なのか。ここからが今日の本題に入っていきます。
僕が思うに、SNSやマッチングアプリのようなもの、さらにはAIの仲介は、どうしても表面的になってしまう。
「深まり」の感覚が得にくいわけですよね。
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一方で本来、従来の関係性が深まるようなタイミングで訪れる感情や関係性がすべて、ネット上だとネガティブなものになりがちです。
そして、その面倒な関係性を通るぐらいだったら、別の出会い、別の出会いとスワイプしてしまいたくなる。
つまり、出会いを構築するための「広がり」の選択肢は無限に増えても、「深まり」が増えていかない。
逆に、出会いの広がりばかりを躍起になって追い求めてしまった結果、今は「深まり」のほうを完全に犠牲にしてしまったとも言えるわけです。
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この点、以前もご紹介した『大人の友情』の中で、おもしろいなと思ったのが、友人の出世について、素直には喜べない大人の友情のお話です。
以下、再び本書から少し引用してみたいと思います。
友人の悲しみに同調するのは、それほど難しくはないが、喜びに対しては、思いがけない嫉妬が動きはじめることが多いのである。この方が普通だと言ってもいいだろう。
ほんとうの友情とはそんなものではない。友人とは一心同体。友の喜びはすなわち自分の喜びでなければならない、と言う人もある。確かにそうだろう。そして、そのような友情を体験することもある。それは有難いことである。
だからと言って、下手に「理想の友情」にこだわると、無理が生じてきて、その分だけイライラがつのり、部下や家族の迷惑が増えるだろう。
これはとてもよくわかる話ですよね。
で、それよりも、自らの心の動きに気づく方が実害がないし、もしよいチャンスがあれば、「お前が課長に昇進したと聞いたときは、結構イライラしてな」と話しあってみるといいと、河合隼雄さんは言います。
その会話によって、二人の友情が深められることも感じるだろう、と。
とても大切な助言ですし、これが現代には非常に少なくなっているとも思います。
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たとえば、現代は、相手の昇進、そんなSNSの投稿に対してリプライやコメントで「イライラする」と書き込んだ時点で、きっと総スカンを食らう。
「なんでそんなことを言うのか?はい、もうあなたとは関係性を継続しません。」と既読スルーされるかミュートされるか、もしくは極端な場合ブロックをしてしまう。
だから余計に表面的なコミュニケーション、絵に描いたような理想的な友情を演じてしまっている。
とはいえ、人の感情はそんなにカンタンに割り切れないわけです。蓋をしても圧力が内部に溜まるだけで、結果として、煮え切らなさだけがドンドンと増幅していく。
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このように、2025年現代、いま僕らが直面している課題は出会いの選択肢は無限に広がったけれど、一方で深まり方が、むずかしい。
だとしたら、もう一歩深いところへ行くための機会が必要であるはずで。
それゆえに、表面的なつながりのための機会、メディアやコンテンツ、イベントなどをつくっても、もうそれほど効果はないわけです。
スマホが出てきた当初、2010年代はその出会いの無限の広がりに人々が飢えていた。
でも、そんなものは世に溢れている。今はどちらかといえば、広がりには食傷気味なわけですよね。
とはいえ、自分の不満足や不足感に対して、その根本原因を自覚できないから、より一層TikTokのような無限スワイプ構造に夢中になる。
もしくは、SNS上の政治のようなレスバトルに夢中になる。きっとその先に自分が欲している真の「出会い」があるのだと信じて。
でもそんなわけがなく、それはのどが渇いた結果、無限に存在している海水を飲んで、余計にのどが渇いてしまう悪循環に陥っているようなものなんですよね。
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ただし、この「深まり」の塩梅って、めちゃくちゃむずかしいなと思います。
今まで、現代人がトコトン避けてきたものだから。
きっと、本当に大切なことは、自分自身が変化していくこと。
人間が本当に幸福感を感じる瞬間は、自分自身が変わることなわけですから。そして、かげがえのない他者と共に過ごす中で、相手と共に変容していけることが、一番の喜びや幸福にも直結する。
でも今は、自分という存在はそのままで、世界の方から私に合うものが取っ替え引っ替え提案され続けてしまう。
つまり、現代の「出会い」のモデルは、僕たちを静止状態に留めたまま、世界の方から無限の選択肢を提供し続けるという構造になってしまっている。
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本音を適度にさらけ出し合いながら、お互いがそれぞれに変化し、深まっていく関係性。
その先に立ちあらわれてくる穏やかな「茶呑み友だち」関係性。
上下関係やマウントを取り合うわけでもなく、かといって表面的な態度になってしまうわけでもなく、そんな状態への変化のさせ方の問題です。
「理解できない」からこその「もっと知りたい、もっと教えて」という「理解したい」という敬意の正しい持ち方が本当に大事なんだろうなと思っています。
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コレばかりは、スマホや各種SNSのような仕組みや構造など、表層的なことではどうしようもない問題。
そこに参加する人々の心の持ちようであり、ひとりひとりの価値観や倫理の変容が必要不可欠です。
なおかつ、それを「共同幻想」として持ち合わせているかどうか、そんな文化感の問題でもある。
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あと、最後に、「継続的なつながり」ももちろん大切であって、そのむずかしさでもある。
学校、会社、地域がなぜ自然と「深まり」を与えてくれていたのかと言えば、それは、一定期間の否応無しの継続的なつながりがそこにあったから、です。
それゆえに、良くも悪くも「深まり」も実現していたわけですからね。
「狭さと深さ」は表裏一体だった。
とはいえ、もうそんな柵を作って、一定期間(中高生のあいだや、現役で働いているあいだは)この枠の中にいてください、といったしがらみをつくることはもはや不可能。
そうじゃなくて、お互いに自発的な「いなくならないから」という握り合い方が大事で、そんなふうに「深まる」ための自発的な関係性の構築が必要不可欠なのだと思います。
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変な話だけれど現代人は「不自由性」や「宿命性」を求めている。
そこで得られる、深い部分で「共鳴」することを求めている。浅い「共感」じゃなく、です。
そのためには、常に流動的で摩擦係数を極限まで下げていくような空間ではなく、適度な心地よい摩擦を、どのように生み出して、場として構築していくのか。
それが、2020年代の課題なんだろうなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。