先日Voicyで配信した、らふる中村さんとの「二毛作」の話。

あの配信内でも、かなり興奮しながら前のめりに中村さんの話を聴いてしまいましたが、これは今とっても大事な観点だと思いました。


僕なりにあの配信の内容をざっくりと要約をしてみると、

中村さんがご出身の山梨県には、山梨の風土に根差した「二毛作」的な働き方があるのではないかと語ってくれました。

具体的には、盆地ゆえに、別々の事柄であっても、淡々と手を動かす作業をすることが好きな県民性。

ただ、それは現代的な「副業」や「パラレルワーク」とも、また大きく異なる概念でもあるのだと。

いわゆるリソースを分散させて、効率的にインカムを増やすという発想ではなく、二つの仕事(例えば本業と創作活動)のそれぞれに、100%全力の熱量を注ぎ込むような働き方。

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それは、それぞれの仕事や作業が「1,1,1…」のように、完全に独立した営みがあって、何かわかりやすくシナジーを狙ったものではない。

つまり、収入増やシナジー効果は主目的ではなくて、ひとつひとつの作業に集中して働いていく。でも、その結果としてシナジー効果も、後から生まれてくるというような感覚です。

むしろ、そうした経済合理性を完全に度外視し、採算が合わないようなことでも「ただやりたいからやる」という衝動のほうが大切。

「手を動かさずにはいられないから」という理由で突き動かされていることのほうが重要であって、その結果として、ものすごい熱量が生まれてきて、人の心までも動かしてしまうのだと。

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で、僕はこの話が、現代の民藝みたいだなと思って、そんな「ひとりマイクロ民藝」的な視点が、これからは本当に大事になってくると思うのです。

今の時代、スマホやPC、AIを使えば「空き時間で、できること」は大体把握できて、コストなんかも計算できてしまいます。

「あー、はいはい、コスパとタイパを重視した結果、そのアウトプットになったのね」というものは、誰もがカンタンに見透かせてしまう。

で、逆説的なのですが、だからこそ、そのコスト感覚から逸脱すればするほど作り手の熱量や想いが伝わりやすくもなる。

この「マイクロ民藝」という職人魂のようなものこそが新たな価値を持ってくる時代に入ったなと思います。

中村さんのハンドペイントパーカーなども、まさにその領域に達していて、その没頭ぶりはもはや狂気であって、完全に頭抜けている。だから、見る人だれもが深く感動してしまうのだろうなあと。

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ただ、普通の人は「こんなことやるよりも、もっとコスパいいものタイパいいものがあって、自分が取り組むべきことが他にあるんじゃないか…?」と不安になって、手が止まってしまう。

それでも、中村さんが没頭できてしまうのは、一体なぜか。

その答えが「縦の系譜を意識する」というようなお話でした。

具体的には、山梨の県民性、中村家の血筋、日本人としての文化的背景にあるんじゃないかと中村さんが仮説を立ててくれて、それは本当にそのとおりだなと。

つまり、自らのルーツ(血筋、土地の風土、文化的背景)を大切にするということ。

逆に言えば、「なぜ自分がこれを今やるのか?」という問いの答えは、自らの縦の系譜を辿ることでしか見えてこない。

横の系譜、つまり市場や経済合理性だけを見ていたら、必ずコスパ・タイパの恐怖に追い立てられてしまい、決してたどり着けない境地なのだと思います。

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さて、だとすれば、なぜ経済合理性だけ、つまり「横の系譜」だけで判断していても、うまくいった時代がこれまでは長く続いてきたのか。

それは、各所で情報格差が存在し、大なり小なりタイムマシーン経営みたいなことが起きていたからだと思います。

その格差が埋まるまでの時間、持続可能な時間もある程度は長かった。

たとえば、田舎と都会のトレンドの差なんかは、非常にわかりやすい。

でもそれがSNSとAIによって、いま限りなく縮減しつつある。同期の時間が一切かからなくなった、それが現代社会だと思います。

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先日まで、地元の函館に帰っていたのですが、もはや人々の様子だけを見ると、今自分が函館にいるのか、東京にいるのか、全くわからなかった。

こんな感覚は、地元を出てから初めてです。それぐらい情報格差は縮まった。

そんな社会の中において、もはや横の系譜だけを見ていたら、みんな一瞬で同じものになるのは当然です。

この世界線において、自らのオリジナリティなんてつくることはできない。つくってもすぐに陳腐化する。

さらに厄介なことは、陳腐化のサイクルがドンドン早まるからこそ、逆説的に余計にみんな新しい技術に飛びついて躍起になり、その技術を提供するGAFAのようなビックテックや、その技術の利用を過度に煽るひとたちだけが、儲かる仕組みになってしまっている。

そんなムダな争い、戦いの螺旋からは本当に早く降りなければいけない。

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そのために必要なのが、ひとり「マイクロ民藝」的に、自らのオリジナリティを淡々と追求すること。

では、そのオリジナリティとは一体どこに宿るのでしょうか。

以前も紹介したことがある『人間の生き方、ものの考え方』という本から、福田恆存が歴史について語っている部分が、とても参考になるなと思います。

唐突ですが、少し引用してみます。

現代の人々の生き方の中には、私たちのおやじの生き方に限らず、歴史というもの、すなわち私たちの先祖が生きて来た生き方が現実の中に入っていないのです。(中略)目に見えないものでも生きているのだという事がわからなければ困るのです。こうして現代の人には歴史というものが見えなくなって来ているのです。


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この部分を読んだとき、僕も最初は意味がわからなかった。

でも、何かものすごく大切なことを教えてくれていることは、直感的に伝わってきました。

個人主義に染められ始めた戦後の人々が見落としがちな点について、福田が警鐘を鳴らしてくれていることはなんとなくわかったので、何度も読み返しました。

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そして、福田は以下のように続けます。

ほんとうに歴史とか過去とかいうものをまともに取り扱おうとはしない。やっぱり現在の必要から捌いている。私は現在の必要があって過去を振りかえるのではなく、過去とまじめにつき合うことによってそこから現在の要求が出て来る、それがほんとうの意味の現在の要求だと思うのです。
(中略)
歴史を虚心に見てゆく、善悪をぬきにして、私たちの祖先がどういうことを考えたかを見てゆく、すなわち過去の人と一緒に生きてみることが大切なのです。その中から本当の現在の要求が出てくるわけです。


これは、本当にガツンと頭を殴られたような気持ちになりました。

本当は、いつだって僕らは歴史側から問われているんだ、と。

文化とは、そんな歴史の上にしか成り立たないもの。

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そう考えてくると、「縦の系譜」のうえにしか、自らのオリジナリティを形成することはできないと気付けるはずなのです。

誰でも簡単に何でもつくれる時代においては、ただ10年間続いていること、それだけでも価値があるという話なんかにも、とてもよく似ている。時間経過だけは、複製不可能だから、ですよね。

だとすれば、ソレよりも更に長い時間軸における地域の歴史や家柄、そこにこそオリジナリティが宿るということもよくわかるはずです。

でも現代人は、これらをことごとく嫌らって生きてきた。具体的には、イエや家族の「絆」などを毛嫌いしてきた。

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これはもう15年も前の話になるけれど、3.11のときテレビで何度も叫ばれた「絆」という言葉に、インターネット上では、ものすごいアレルギー反応が見られました。

でも、それも当然なんですよね。絆とはもともとネガティブなものなのだから。

この点、河合隼雄さんは、『父親の力母親の力「イエ」を出て「家」に帰る』という本の中で、絆はもともと「ほだし」というネガティブな意味合いだったと語ります。

こちらも、少し本書から引用してみたいと思います。

たとえば家族の絆というと、いかにもプラスのことばかりを考えがちですが、マイナスの意味も持っています。「絆」という字を、平安時代ごろには「ほだし」と読んでいました。「ほだし」とは、牛とか馬が勝手に動けないようにするための縄のことで、もともとは自由を拘束するという意味がありました。
(中略)
その絆がプラスの意味に使われるようになったのは、家族の関係が薄くなりすぎたからです。昔はそういうのがあるのが当たり前でしたから、「ほだし」というマイナスの意味で使われたのです。


これはなんだか目からウロコですよね。

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「私は一体、何の歴史、その”不自由さ”に繋がれるのか?」そうやって深く深く掘っていくと、実は「本当の自由」が見つかるという逆転した構造があるはずなのです。

深く深く自らの井戸を掘り続けていくと、どこか深い人類普遍の水脈につながるように。

歴史や物語における真の価値も、きっとここにあると僕は思います。

そして、その井戸を掘るという作業は、「マイクロ民藝」として取り組むような、淡々と手を動かす作業が必要不可欠だということなんのでしょうね。それが命綱や手綱のような役割として機能する。

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過去の歴史があっての今であり、僕たちは否応なくその上に立ってしまっている。その自覚をちゃんと持つこと。

ソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉なんかにも見事につながるように思います。

そのうえで、市場原理に従うトレンドありきの「横の系譜」としての仕事と、自らの内なる声、そのルーツに従う「縦の系譜」としてのマイクロ民藝。

その両者をしっかりと両立をしていくことが、これからのAI時代に、オリジナリティを担保していくうえでは非常に大切な観点になってくるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。