最近また、何周目かの夏目漱石ブームが自分の中で来ています。

古くからWasei Salonに参加してくださっているメンバーのみなさんには「また鳥井が夏目漱石の話をし始めた」と思っている方もいるかもしれません。(これがサロンの良いところ)

で、最近いくつか夏目漱石の作品を読んでいて、改めて刺さったのは『坊っちゃん』なのです。

なぜ今このタイミングで、これほどまでに夏目漱石に惹かれるのか。

今日はそんなお話から始まって一見すると夏目漱石と無関係そうな「知行合一」に関するお話をしてみたいなあと思っています。

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この点、養老孟司さんが「夏目漱石の魅力」をとてもわかりやすい言葉で、言語化してくれています。

改めて僕の拙い言葉で言語化するよりも、その前提は養老さんのお話で共有した方がいいかと思いますので、「読書の学校 養老孟司 特別授業『坊っちゃん』」という中学生に向けた講義内容を本にした書籍から少しだけ引用してみたいと思います。

なぜ私だけでなく、日本人は漱石が好きなのか。同時代の明治の文学の中でも、漱石だけがこれだけ読み継がれるのはなぜか。     

漱石が描いたのは、人の成熟と社会との関係です。君たち中学生はまだそれほど世の中とぶつかっていないかもしれない。しかし、これから君たちが本当の意味での大人になり、社会に出た時に、多くの人がこのテーマにぶつかります。
(中略)
自分が考えている世界と実際にある世界。どちらが良い悪いではなく、ただ、ズレている。ズレている時、君たちならどうしますか。こちらのズレを直すか、向こうのズレを直すかです。 向こうのズレを直すといっても、世の中や社会はそう簡単には変わりません。ズレた社会を変えることを「革命」といいます。


まさにこの部分なんですよね。

「世間」とのズレの話と、成熟と社会の関係性という点において、いま僕自信が間違いなく惹かれていたり、励まされていたりする原因なのだと思います。

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そして、過去に何度かご紹介してきた阿部謹也の名著『世間とは何か』という本の中にも、見事に『坊っちゃん』に言及する部分が出てくるのです。

こちらも「世間」と関連してくる部分なので、合わせて少しだけ引用してみたいと思います。

私達は長い間坊っちゃんを理想化し、坊っちゃんに身を寄せてこの小説を読んできた。そのために赤シャツや野だいこそして校長達は薄汚い存在だという評価が定まってしまった。実は私達自身が決して坊っちゃんではありえないからこそ坊っちゃんに身を寄せてきたのであり、私達自身が赤シャツや野だいこの同類であるからこそそれらの人々を薄汚い存在とみなしてきたのである。いいかえれば明治以来私達は、私達を拘束している「世間」の存在に感づいていたにもかかわらず、それを対象化することができず、そのために坊っちやんに身を寄せて架空の世界の中で「世間」をやっつける楽しみを味わってきたのである。


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ここ最近のブログの中で何度か触れてきた、河合隼雄さんの『おはなしの知恵』の中でも書かれていたことですが、僕らは「物語」の中に現実の世界では行ってはいけないことを擬似的に体験するような役割を持たせているのだろうなあと。

そうやって、「影(つまりもうひとりの自分)」の存在に、しっかりと折り合いをつけようとしている。一見すると危ない話や残酷な話が、寓話の中に多いのもそれが理由のひとつだろうなと。

だから「おはなし」や神話の類いというのは、人類において必ず必要なものなのだと思います。

科学や論理だけではどうしようもできない部分が必ず存在しているからでうす。これはある種のガス抜きにもつながっている。

そう考えてくれば、阿部謹也が言及するように、夏目漱石の『坊っちゃん』だって日本人にとっては長い長い「おはなし」なんですよね、きっと。

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とはいえ、どこかで虚無感みたいなものも感じてくるわけです。

それは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』を最近読んでいても改めて思ったことです。

この『動物農場』という物語は、ロシア革命をモデルにした作品で、人間の支配を脱して、自由になろうと革命を起こす動物たちの物語です。

この物語を通して一番グッと来たのは、最後の訳者解説の中でも語られていた「違和感は感じているのに、それを言葉にしてこなかったひ弱な動物たち」の存在です。

この作品のなかには、たくさんの「悪」がわかりやすく存在している。

具体的には、新しく権力側に居座ろうとする悪どい豚たちや、それにすり寄る腰巾着のような動物たち。実際に彼らがやり玉に上げられがちだけれども、そうじゃなくて「違和感をちゃんと言語化してこなかったよね?曖昧にしてモヤモヤっとさせられて、それで黙って飲み込んだよね?」という指摘が、本書の解説部分でもなされていて、本当にそうだなあと思いました。

明確に誰か悪い人間がいるわけではなく、ひとりひとりの責任なんだということをジョージ・オーウェルは、この小説を通じて書きたかったんだろうなあと。

つまり、動物たちが「世間」や「空気」に流されてしまったという「おはなし」なわけです。

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で、ここまで書いてきて「なるほど、だからか!」って腑に落ちたのが、陽明学の「知行合一」の考え方であって、やっとここでつながってきます。

知行合一をものすごく簡単に要約すると、知識と行為は一体であるということ。本当の知は実践を伴わなければならないという意味合いの言葉です。

僕は、この「知行合一」という言葉を初めて知ったとき、子供心に「そりゃあ当然だろ」と思っていました。

でも大人になるにつれて、この言葉の重要性、その意味をよくよく理解できるようになってきた。これは「知っていても、行動しなければ意味がないんだ」というような、そんな怠け者に対するような話ではないんですよね。

そうじゃなくて、僕らは成熟すればするほど「世間」に流される、流されるという言葉があまり適切ではなければ、ちゃんと世間と「折り合い」をつけて生きるようになる。

折り合いをつけていくことは、ひとつの成熟した大人の生き方だから、それが悪いことではないと思います。むしろ、それこそ世間的には良いことだと思います。

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でも、やっぱり自らの信念に照らし合わせて行動を変えることも、一方でとても大事。

これは、どっちかキッパリと切り分けられる話ではないかと思います。折り合いも、張り合いも、本当にどちらも大事であることは間違いない。

養老さんは、先ほどご紹介した本の中で「知行合一」に関しても語られていて、以下のように書かれていました。

ここまでは坊っちゃんがブツブツと文句を言いながら思いを巡らせているだけですが、ここから一気に行動に移ります。思いを実行する。 知行 合一(*3) です。     相手が気に障ることを言う。それが脳に入る。行動を起こせば、環境が変わる。そしてまた入力が変わる。出力が変わる。入力と出力を回して循環が起こり始めます。「やってみなきゃわからない」と私が先ほども言ったように、やってみることで、何かが必ず変わる。それが良いことだという保証などどこにもありませんが、何もしないよりは環境が動くということです。


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さて、ここで一気に卑近な例になってしまって申し訳ないのだけれども、最近、巷で話題のウォルター・アイザックソンが書いた『イーロン・マスク』(の伝記)を読んでいます。

世界には、イーロン・マスクのように最初からネジが外れているひとたちも一定数存在している。

同じく『スティーブ・ジョブズ』もそうだった。

彼らは極端に「ナチュラルボーン知行合一」と言えるような存在だと思います。

それゆえに、世間とも激しく衝突もしてしまう。そして世間から、散々に嫌われる。自らの知からから導き出される行動を優先するのだから、当然です。

僕ら一般人はそこまで振り切ることはできません。「世間」という引力に必ず引っ張られる。

でも、そこから離れることもとっても大事で、他の引力によってバランスを取る必要がある。

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で、ここで大切になってくる基準がきっと、「天」なんだろうなあと思います。

知行合一を大切にしていた西郷隆盛の「敬天愛人」や、夏目漱石の「則天去私」という考え方は、きっとそういう意味合いも含まれている。

言い換えると「世間」と対局にあるものが「天」なんだと思うのです。

ここが今日一番に伝えたいポイントです。

これは決してスピリチュアルな話ではなく、ものすごく合理的な基準の設定の仕方だと僕は思います。

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どこまで伝わったのかは定かではないですが、今日ブログを書いている中で、僕の中では、過去の色々な知見として「点と点」が線でつながった感覚がある。(いや、天と点かも。)

ただ、ここで自分(個人)だけが変化しても意味がなくて、やはりここはひとりひとりの行動がそれぞれに変わっていく必要もあると強く思う。

さもなければ、また世間が肥大化し、同じ過ちが起こることは間違いないのだから。

近年頻繁に用いられるようになった「新たなる戦前」という表現もきっと、「世間が肥大化している」という意味でもあるのだと思っています。

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じゃあ、一体何が「世間」と「天」の橋渡し役のような役割を果たすのか。

意外にも、それが坊っちゃんの中に出てくる「清」の存在なんじゃないかと僕は思うのです。

幼少期の時代から坊っちゃんを可愛がる下女・清の存在、その「見守り力」の効果効能は改めて本当に大きいなあと思います。

だからこそ、あの作品も、清との物語から始まり、最後は唐突に清の死、そして、そのそんな清のお墓の話で終わる。西郷隆盛で言うところの「母親の存在」もそうだったのかもしれません。

だからこそ、僕はみなさんにとっての「清」みたいな場所(存在)をつくりたい。僕の考えるアジールって、つまりはそういうことです。

こればかりは言葉ではうまく伝えられない、気になる方はぜひ今日の話を踏まえて、『坊っちゃん』を改めて読んでみて欲しいなあと思います。

たぶん若いころに読んだ時とは、全く違う印象を受けるはずだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。