先日、AI分野においても著名なインフルエンサー・深津 貴之さんが以下のようなツイートをしていました。
これは、本当にそう思います。ものすごく的を得ている指摘だなあと感じる。
現代のSNSに限らず、言論というのは基本的に、このような道徳バトルになりがちだなあと常々感じます。
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誤解を恐れずに言えば、イエスもブッダも、当時の思想界において、やったことはほとんどこれと一緒だと思います。
彼らは既存の道徳観に疑問を投げかけ、新たな倫理的枠組みを提示することで、当時の社会に大きな影響を与えたわけですよね。それに対するニーチェの「奴隷道徳」のような批判なんかもまさにそう。
どうしたって思想や哲学、宗教、そこから派生する各時代における倫理観や道徳観というのは、この道徳バトル構造になるジレンマを抱えているということだと思うんですよね。
新しい価値観を提示する側も、それを批判する側も、結局は自らの道徳的優位性を主張しているという点では同じなのです。
そして、この点において現代の特殊性があるとすれば、一部の言論人やエリート、インテリだけでなくて、SNSによって全員参加型の道徳バトルになっているということ。
観客もそれぞれのコメントを引用ポストして発言できるし、そうじゃなくてもリポストやいいねで参戦できるということなんだろうなあと。
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これは極端な話、このような道徳バトルで打ち勝つための一つの手法として、新しい価値観が打ち立てられているということなんだと思います。
つまり、何か普遍的な平等思考が先にあり、その真理や善に向かって突き進んでいるというよりも、実態としてはその逆なのだろうなあと。
平等原理の観点から、今の時代なら既に内包できるはずの「マイノリティ」を包摂しないことはおかしいという議論を打ち立てて、それを道徳バトルの武器にしてしまうひとたちが必ず現れる。
それはいつだって、道徳バトルにおいてものすごく強力な武器になるわけですからね。そして、相手の道徳的劣位性を指摘することで、自らの立場を強化するという戦略が、延々と繰り返されてきたということなんだと思います。
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だから今に始まったことではないし、結局のところ、いつの時代もこのような構造に陥るのが、世の常でもあるということなんだろうなと。
歴史を紐解けば、どの時代にも似たような道徳的論争があったことがわかります。
逆に言えば、道徳バトルを仕掛けられる側、社会的に優位にいる資本家や権力側にいる人たちは、いくらでもそのような態度を「これは道徳バトルだ、弱者のルサンチマンだから聞くに値しないんだ」ということも、いとも簡単に言えてしまう。
だって、相手側が主張しているのは、実際問題それは道徳バトルのためだけに生み出された、相手を殴るために生み出された偽りの武器に過ぎないとも言えるわけだから。
もちろん、だから道徳バトルだと揶揄するのが、間違っていると言いたいわけでもない。ここで僕が主張したいのは、どちらの立場から見ても、実際にそのような構造にあるということなんですよね。
そして、このような相手を殴るための道徳こそが、世界を変えてきたという現実も、間違いなくあるわけなんです。
言い換えると、それにより救われたマイノリティや、是正された社会的な不平等、ありとあらゆる不合理が是正されてきた歴史もある。
奴隷制の廃止など、歴史上の多くの重要な社会変革は、新たな道徳的枠組みの提示から始まったことは間違いないと思います。
というか、人類の歴史なんて、そのようなマウント取り合い、道徳の殴り合いの繰り返しでしかないとさえ言えそうですよね。
あくまで、その副産物として政治や経済、社会が、発展してきた。
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なんだかこれは、ものすごくニヒリズムっぽく聞こえるかも知れないのですが、どこまでいっても、どちらの立場からも相手の主張を否定できてしまうことは、ちゃんと知って置くべきだと僕は思います。
本当にどんな論点であっても、ディベートの題材になり得て、賢い人は肯定側、否定側そのどちらの立場にも立てる。
どっちの立場にたっても、相手を殴ってクリティカルなダメージを与えられるだけの攻撃力を持つ論理構成は、生み出すことができるわけですから。
そうじゃないと、そもそも弁護士なんて職業自体も成り立たない。
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また、これは余談ですが、近年の特殊性がもう一つあると思っていて、それがきっとAIの存在なんです。
当事者や、その当事者の集合体である社会の中に、明確にマイノリティ側を差別するつもりがなくても(弱者から不当に搾取しようとするつもりがなくとも)AIが勝手に良かれとも思ってそのような構造を作り出してしまう。
同時に、ものすごくピッカピカのリベラル的な発言もできる。
その2つを同時に繰り出してきて、人間だったらどっちかの言葉が嘘をついてることになるんだけれど、AIの場合はそうじゃない。
そもそもAIに、意図や本性や本音なんてものが存在しないわけですから。
だから表立ってはものすごくリベラルな返答をしつつ、実は企業利益を増大させるために差別的な構造を生み出すことに助長していたということにもなりかねない。
そのときにAIの内側がまったくのブラックボックスになってしまっていれば、指示している人間にさえもうわからない。表面的なリベラルな言葉を、信用するしかなくなるわけです。
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明確に数字としての効果が現れれば、AI側はその効果がより最大化するような施策を無慈悲に打ってくるに決まっています。
つまり人間側や企業側に、差別意識がなくても、結果的に差別につながる構造を生み出しているということも十分にありえるわけですよね。風が吹けば桶屋が儲かるのような形において、その相当因果関係が認められない範囲で、非常に間接的に。
だとすると、ますますそれぞれの当事者間においては、責任意識不在の道徳バトルは加速することにもなるかと思いますし、それはどこまでいっても水掛け論争になる。
これはもう時間の問題のような気がしますし、実際に既に至るところで置きているんだろうなあとさえ思います。
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で、だからこそ、僕がこれからしっかりと考えたいなと思うのは、他人に、自分の道徳をあてがって石を投げる前に、自分自身がどのような道徳のもとに生きたいのかを、ド真剣に考えたいなということなんですよね。
何か明確な、これが圧倒的な真理だというような、学校の先生や神の視点から観たような「正解」があるわけではないのだから。
どうしても、日本人の僕らはそのようなものがあると信じて疑わないけれど、実際にはそうじゃないと思うのです。
自分の中での納得感のある道徳を見つけ出して、それを自らが、自らの信念のもとで、淡々と実践するほかない。
そのためには、昨日も書いたような「複数の物語」を知っている必要もあるということなんでしょうね。フィクションによって多様な価値観や、立場の理解が進むことは間違いなくあるから。
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あとは、そこで得られた手触り感のある「これだ、これかもしれない」という感覚を日々トライアンドエラーを繰り返し、磨いていきながら、淡々と実践していくぐらいしかないと思っています。
これに終わりはなくて、問い続けるという過程しか存在しない。
でもそれをひとりで実践していると、ときに挫けそうにもなるはずで。ゆえに、共に似たような価値観を持っているひと同士、実践しているひと同士がゆるやかにつながっていることに価値が生まれてくる。コミュニティの価値もきっとここにある。
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逆に言えば、自分はこんなにも正しいことをしているのに、こんなにも孤独なのはおかしい、何かが間違っている。
そう思うから、人々は自分よりも幸福そうな相手に対して、必死で石を投げているのだとも思います。道徳という、どんな立場にいても振りかざせる、ものすごく強力な武器を用いて、です。
というか、その石を投げるという行為自体において、他者とつながろうともしてしまうということなんでしょうね。徒党を組むことの危うさも、きっとここにある。
でも、本当に大事なことは、自分がどうするか、ということなんだと思います。それぞれの現場において、自らに問い続けるということ重要性のひとつは、ここにあると僕は思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/09/22 21:03