昨日、写真家・土田 凌さんの写真展に行ってきました。


土田さんとは、もう結構長い付き合いになってきていて、株式会社Waseiで手掛けた様々なメディアの撮影を過去に何度もお願いしてきました。

その中でも、特に印象に残っているのは、やっぱり地元を切り取ってもらったときです。

2年ほど前に、僕の地元でもある北海道函館市を紹介する『生活圏』という雑誌において、土田さんにすべての写真を撮影を担当してもらったことがあるのですが、

そこには、僕がまったく見たことのない函館が写っていて、でも紛れもない函館でもあって、どこか懐かしさもあり、その両義性に本当に驚かされました。

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で、今回の写真展では、土田さんがトルコに行って撮ってきた写真だけが展示されていました。

本当に素晴らしい写真の数々で、終始圧巻させられる感じ。特に個人的に感動したのは、そこに「宗教性の芽生え」みたいなものが見て取れたことです。

表現の側からそれが見事に描かれてあって「あー、こっち側からの山の登り方があるのか!」という感動というか膝を打ってしまう感覚は、なんとも言葉に言い表せられないものがあった。

実際に写真展に行った方であれば、きっと共感してもらえると思うのですが、それが本当にものすごく自然に描かれてありましたよね。

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短い時間ではあったのですが、直接土田さんに少しだけお話を聞かせてもらえて、その中でも印象的な言葉がドンドンと飛び出てくる。

特に「撮影する時に意識されていたことは何だったのか」という質問に対して「撮影の対象物が何かはわからないけれど。ハッとしたら、パッと撮る。意識が出てくる前に」と語られていたのが、個人的にはものすごく興味深かったです。

あとから現地の方に解説を聞いて、それが石のお墓であることを知るというようなお話が、本当にその瞬間を切り取っている感じがして良かったなあと。

また、ご本人が、自らの取材と身体性を通して自然とたどり着いた境地のようでもあり、丁寧に語ってくれる言葉のひとつひとつが、素晴らしかった。

このブログで過去に何度かご紹介してきた西田幾多郎の「純粋経験」そのものだなあと感じました。まさに「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」そのもの。



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また「そうやって撮られた写真を編集するときに一体何を意識されていいたのか」という質問に対しての返答も非常に印象的でした。

何を意識されているのかを聞くと「なんでしょうね…?」と深く考え始めてくれて、「また別の第3の視点のようなものを働かせている」と語るのです。

僕は勝手に、その時の自分、つまり撮影者目線をより際立たせるのか、もしくは、そのときに初めて鑑賞者目線を入れるのか、そのどちらかなのだろうなあと勝手に思っていたけれど、その時出てきたのはどちらでもない、第3の視点。

それは、ある種の超越的な視点でもあると。そこにも、宗教性のようなものが見事に立ちあらわれているような気がして、本当に感動してしまいました。

土田さんが、宮崎県の「神楽」を定期的に取材し撮影し続けているという話を聞いた時あたりから、土田さんの中で何かが開花しつつあるんだろうなあと思っていたけれど、その凄みが見事に発揮されているような写真展でした。

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あとは、ここからは直接ご本人にも伝えてはいないことだけれど、ものすごくしれっと「トルコには、1ヶ月ぐらい滞在していました」と語っていたんですよね。

しかも、過去に一度も行ったこともなかったのに、突然1ヶ月滞在したというのだから、本当に驚きです。

そして、写真展に飾られてあったとても短い文章の中で、20時間超えの深夜バスにも揺られていたと、なんだか当たり前のように書いてある。

でも、それが一体どれだけすごいことか。

僕の持ち合わせているトルコの知識なんて、最近たまたま読んでいた村上春樹さんの旅のエッセイ『雨天炎天』の中で紹介されていたものぐらいしかないけれど、それを読む限り、ものすごく異質な国であることはきっと間違いない。

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そんな過酷な体験をしてきているはずなのに、土田さんは「ロードトリップのように見せたくはなかった」とも語るのです。これにも本当に感銘を受けました。

普通に考えれば、そこまで深く踏み入る過酷な旅をしたら、どうしてもロードトリップ的に表現したくなると思うんです。

苦労話や冒険譚として語りたくなる。写真集や写真展を行ううえでも、そのほうが一般的であり、鑑賞者からも受け入れられやすいはずです。

でも土田さんはそうしなかった。その選択肢が、本当に素晴らしいと思いました。

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思うに、今って、なんでもかんでも効率良くできてしまう時代です。AIに任せれば、勝手にリサーチまで行ってくれる。

だから、現地に行かないことなんて当たり前。

また、「現地で実際に取材や撮影をしてきました」という場合も、インターネットで徹底的に調べて、狙いを定めてコスパ・タイパ良く短期間で撮ってきて、それっぽく仕上げて、現地を観てきたって簡単言えてしまうわけです。

でもそれは「現地を観てきた」という免罪符みたいなものを現地まで取りに行ったというだけであって。やっぱり主軸は完全に、バーチャルの方になってしまっている。

「現地に行ったことが評価されるみたいだから、とりあえず現地にいっておこうぜ」というハック思考の最たるもの。

そういう制作物には、もう本当にうんざりする。

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そうではなくて、土田さんの場合は、間違いなく現地の「空気」をしっかりと吸ってきた。

そして、その空気によって自己が変容してしまったことを、写真という媒体を通して表現をしている。そこに僕は、ものすごく感銘を受けるのです。

空気を吸い、短期滞在でも暮らしてみて、そして、現地のローカルな交通機関に地元の人達と一緒に長く揺られる。

その圧倒的に「無駄な過程」への信頼感。

つまりは、どういう時間のかけ方をしたのか、ってことなんですよね。

95%は直接には何も役に立たないことをやってるから、その人のことを信頼できることがあるって、最近僕は強く思っていて。

その中で起きてしまった、意識が介在する前の「純粋経験」を写真でおさめる。それこそが、現地の空気を吸って、自分自身の変化、自分が変わってしまうということだから。

自分が変わらなければ、現地に行く意味なんてまったくない。

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この点、直接的には関係ないですが、旅にまつわる「空気」の話を、先ほどもご紹介した村上春樹さんの『雨天炎天』のなかで、とても上手に説明してくれていたので、以下で本書から少しだけ引用しておきたいと思います。

でもその時以来、僕はトルコという国に対して強い興味を抱くようになった。それがどうしてかは自分でもよくわからない。僕を引きつけたのは、そこにあった空気の質のようなものではなかったかと思う。そこにある空気は、他のどことも違う、何かしら特殊な質を含んでいるように僕には感じられたのだ。肌ざわりも、匂いも、色も、何もかもが、僕がそれまでに吸ったどのような空気とも違っていたのだ。それは不思議な空気だった。旅行というのは本質的には、空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。おそらく記憶は消えるだろう。絵はがきは包褪せるだろう。でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。


これは旅好きの方にとっては、とても納得感のある話だと思う。

土田さんの写真には、まさにその空気が表現されていたと思うし、それをしっかりと吸ってきた人間だからこそ、撮れた写真なんだろうなあと思わせてくれるものが間違いなく表現されていました。
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このような価値を、もっともっと言祝ぐことを僕はしていきたい。

長い長い無駄な時間を積み重ねてきたものは、決して裏切らないと僕は思うから。

上手くなんかなくていいから、注意深いこと、丁寧に耳を澄ましてきたひとの作品に、しっかりと目を向けていきたい。

テクニックやハック的なものではない何かが間違いなくそこに顕現する。そこに、ふいに宿る何かがある。

実際、土田さんの写真展に飾られていた写真は、何かが宿っている感覚みたいなものを、とても強く感じられた。

これはなかなか言葉でうまく言えないのですが、写真という表現においてそれを見せてもらえて、なんだか純粋にとても励まされたんですよね。

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今回の写真展は、学芸大学にある素敵な本屋さんの1階と2階のギャラリースペースで開催されていたのですが、それらを一通り実際に観終えて、外に出た瞬間、健やかな風が吹いていた気がします。

生きる気力が湧いてきた。「風立ちぬ、いざ生きめやも。」という言葉が自然と浮かんでくるほどに。

あー、これが表現の力なんだなあと本当に心底感動しました。

期間は残り短いですが、明日9月24日まで開催しているようです。気になる方はぜひ足を運んでみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。