先日、村上春樹さんの海外の紀行文を寄せ集めたエッセイ集『ラオスにいったい何があるというんですか?』という本を読んでいたら、とてもハッとする表現に出会いました。

旅好きとしては、なんだかとても共感するお話で、それが一体どんな内容だったかと言うと、村上春樹さんがラオスの街の中を歩いていると、とにかく多くの「物語」に満ちていると実感されたというお話です。

そこから人々がコミュニティ形成において、複数の物語が重要な役割を果たしていると語られています。

これは読みながら、なんだかものすごくハッとしてしまいました。

今日はこの視点から、コミュニティ運営と複数の物語の重層性、その関係について深く掘り下げて考えてみたいと思います。

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では、さっそく本書から少しだけ引用してみたいと思います。

ルアンプラバンの街の特徴のひとつは、そこにとにかく物語が満ちていることだ。そのほとんどは宗教的な物語だ。寺院の壁にはあちこちに所狭しと、物語らしき絵が描かれている。どれも何かしら不思議な、意味ありげな絵だ。「この絵はどういう意味なのですか?」と地元の人々に尋ねると、みんなが「ああ、それはね」と、進んでその物語の由来を解説してくれる。どれもなかなか面白い話(宗教的説話)なのだが、僕がまず驚くのは、それほど数多くの物語を人々がみんなちゃんと覚えているということだ。言い換えれば、それだけの多くの物語が、人々の意識の中に集合的にストックされているということになる。その事実がまず僕を感動させる。そのようにストックされた物語を前提としてコミュニティーができあがり、人々がしっかり地縁的に結びつけられているということが。


この文章を読んで、僕は強く共感しました。

というのも、10年以上前、バックパッカーとして東南アジアを旅していたとき、ミャンマーでも似たような体験をしたからです。

ミャンマーも仏教信仰が非常に篤い国です。

そして当時のミャンマーの人々は、まだ外資系企業の進出が本格化する前で、どこか擦れていない印象がありました。街を歩き、人々の表情や雰囲気を感じていると、宗教が持つ力の大きさを強く実感したものです。

もちろん、現在のミャンマーは軍事クーデターなどもあり、状況は大きく変わってしまったかもしれませんが、あの時感じた宗教の力、そしてそれを通じて形成されているコミュニティの居心地の良さは今でも鮮明に思い出します。

村上さんは、「宗教」を定義するのは難しいとしつつも、このような固有の「物語性」が世界認識の枠組みとなって機能することが、宗教の基本的な役割の一つだと述べています。

そして、それは目的や仲介者の「解釈」を必要としない、純粋な物語であるべきだと。

この考えに、僕も強く共感します。

宗教文化が生み出す独特な物語の多様性こそが、コミュニティを形成し維持するうえで必須の力なのではなのだろうなあと。

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この考えは、最近連続で語ってきた「京都の文化」にも通じるものがあると思います。

京都の人々の価値観を丁寧に聞かせていただくと、どうしてもその特異性に驚かされて、聞きながら僕は絶賛したくなるのですが、多くの方が「親に感謝です」とか「この町のおかげです」と答えてくれます。

多くの方が、それを自分で能動的に学んだものとは捉えていない様子なんですよね。

さらに興味深いのは、それが家庭内だけでなく、地域全体で自然と養われてきたものだという実感が溢れ出ていること。まるで昔からそこにあった「物語」のように、当たり前のものとして捉えられているのです。

京都には1000年以上前から「この土地で起きた実話(ここ重要)」として語り継がれる物語が数多く存在している。

そして、上田秋成の『雨月物語』のような、あちら側とこちら側の境界を行き来するような話も多い。もちろん美しい物語だけでなく、日本人なら誰もが知る「お岩さん」のような怪談話なんかも含まれます。

このような物語が、自分たちの暮らす土地を舞台にして語られることの力は、きっと計り知れないのだろうなあと。

子どもたちが成長する中で、それを自然と「自分ごと」として捉えることもできる。そして、その物語に内在する複雑な価値観も、自然と”複雑なまま”身につけていくのだと思うのです。
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対照的に、東京には独自の物語が、あまり多くないように感じます。

あるとすれば、近年のマスメディアによって作られたドラマや映画の一義的な価値観、あとは敗戦後にどっと流れ込んできたアメリカン・カルチャー、そして最近ではインターネットを中心とした新自由主義的なイデオロギーに満ち溢れた、どれも経済と政治の中心地ゆえに生まれる物語がメイン。

逆に言えば、そうやって一義的な物語が広がっている街に、世界中から人々が吸い寄せられてくるから、ひとつの方向にダイナミックに発展しやすいのが、東京の魅力でもあるのだと思います。

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でもやっぱり、そのような一義的ではない、物語の重層性みたいなものもとても大事だなあと思います。

自分が成長する過程の中で勝手に覚えてしまった物語が、それぞれがバラバラで一体何が正解で、何が間違っているかさえも、一概に判断できないのがいいんだろうなあと思います。

また、それが実際に人生において、どう役に立つのかどうかもわからない。

でもそうやって、様々な物語や解釈可能性が存在するものが、コミュニティ内において共有されているということが良いんだろうなあと。

実際、村上春樹さんのラオスの旅の紀行文の最後も、以下のように締めくくられていています。

「ラオス(なんか)にいったい何があるんですか?」というヴェトナムの人の質問に対して僕は今のところ、まだ明確な答えを持たない。僕がラオスから持ち帰ったものといえば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。
(中略)
それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。結局のところたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。


この言葉は、物語や経験の価値を深く考えさせてくれるし、まさに旅というのものは、そういうものである気がしています。

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さて、僕自身が、30代に入ってからなぜ突然に小説、特に長編小説を読み始めたのか、自分でもずっと不思議だったのですが、それは間違いなく、コミュニティ運営に活かすためだったのだろうなあと、今振り返ってみて強く思います。

コミュニティの運営には多くの悩みがつきもので、それはビジネス書や実用書、思想や哲学書の類だけでは解決することができない。

そんな時、長編小説の中に、その答えがあるような気がしたのです。言い換えれば、コミュニティを長く、本当の意味で健やかに維持継続、発展していくために必須なことが、そこにあると感じたということなんでしょうね。

しかもそれは、ひとつだけの物語ではなく、それぞれ複数の物語に異なる葛藤があり、何が正解で何が間違いかを判断することができないことが重要で。

村上春樹さんの物語もそうですし、夏目漱石の作品やドストエフスキーの長編小説なんかもまさにそう。そうした葛藤をそれぞれに見事に描いてくれています。

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コミュニティ内の読書会などを通じて、メンバー同士でもこれらの物語を共有し、簡単には答えが出ない問題を共に眺めてみる。

そして、それぞれの身体の中にその物語が存在し、どこか引き裂かれる感覚、葛藤する感覚を共有する。

言い換えると、その複数の物語と物語を、みんなで試行錯誤をしてなんとか架橋して、その間に生まれてくる矛盾みたいなものを矛盾のまま包摂することが、本当の意味でコミュニティをつくるうえで必要不可欠なんだと思うのですよね。(なかなかうまく言えないのですが)

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もちろん、Wasei Salonで定期的に更新されている「わたしの一歩」のようなインタビュー記事、メンバーそれぞれの人生における固有な物語(実話)も、同じように重要なのだと思います。

これらの実話が、フィクションの物語とまた並列に存在していることも、とても大切なことなのだと感じる。

どうしてもコミュニティ運営をしていると、一つの大きな物語を共有し、そこにみんなをフォーカスさせようとしてしまいがちなのですが、そうではなく、複数の物語をその場にいる人間たちで共有している、それこそが大切なのんだろうなあと。

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ホモ・サピエンスは、地球上では決して強い生き物ではないにもかかわらず、それがいつしか世界を牛耳る生物になれたのは、物語る力があったからだと言われています。

今日の話を受けて、なおさらこれには非常に説得力のある説明だなあと思わされる。

これからも、一義的ではない、正義が全く持ってはっきりしていない、何がこの物語の教えなのかもはっきりしないような物語をお互いにシェアし合い、みなさんと共に味わっていきたいなあと思います。

そして、ドンドン横道にそれながら「そうそう、あの物語につながるね」という話をしていきたい。

それを5年、10年、20年と続けていくうちに、自然とそれがコミュニティの厚みや膨らみを生み出し、レジリエンスみたいなものにつながっていくのだと思います。

河合隼雄さん風に言えば、これこそまさに「おはなし」の持つ力。

繰り返しになりますが、決してたったひとつの正義がはっきりした一つの大きな物語で染め上げたりはしたくない。

複数の物語が、いつも重層的に語られているような豊かさを、この場では丁寧に生み出していきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。