最新回の「100分de名著」の中で、flierのような書籍要約サービスがダイレクトに批判されていました。


「わかりやすい要約コンテンツの配信が、群衆の愚行につながってしまっているのだ」と。

しかし、「100分de名著」のような書籍の要約番組がそれを言うのかと、なんだかおもしろく感じてしまいました。

僕には、どちらも五十歩百歩に思えたからです。

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「100分de名著」側の主張は、この番組が放送されれば、紹介された名著の原著が書店やAmazonで売れて、それが読まれるからOKなのだと。

あくまでも、この番組はそのきっかけを提供しているに過ぎない、と。

もちろん、実際に番組放送終了後には名著そのものが、かなりの冊数売れているのだと思います。

しかし、番組の視聴率から計算して、そのうち何%の視聴者が実際に購入しているのか。

恥を忍んで書きますが、僕自身もこの番組を全て観ている熱狂的なファンでありながら、原著を読んだのは多分半数にも満たないかと思います。

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この一連の流れを受けて、企業側の「善良な一般消費者という妄想」について、しばらく考えこんでしまいました。

「私たちの商品(コンテンツ)を消費する人たちは、こういう人々であってくれるだろう」という企業側にとって都合の良い思い込みや、淡い期待。

しかし、実際の消費者(視聴者)の行動はそこから大きくズレてしまっている可能性があり得るわけです。

それゆえに、社会にどのように悪影響が出てしまっているのかを企業は省みる必要はないのだろうか、と。

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ここまで読んでくれた方の中には、

「車や包丁、睡眠薬なんかも、消費者に悪用されることはある。それでも、市場で販売されている。それと大して変わらないじゃないか」と思う方もいるかもしれません。

おっしゃる通りです、だから免許制度で制限したり「許された危険」として、ある一定の制限下で販売が認められていたりする。

つまり、悪用される危険性以上のメリットが、 社会全体に間違いなく存在するから、販売が認められているわけですよね。

まさに「最大多数の最大幸福」のような功利主義的な考え方です。

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でも、一方でアルコールやタバコ、競馬やパチンコ、スマホゲームなんかはどうでしょうか。

提供する企業側が「善良な一般消費者」を想定しているのは間違いない。

しかし、ズレた使い方、具体的には「中毒的な消費をしている消費者」の売り上げによって、どれぐらい企業側が支えられてしまっているのか。

それでもCMや広告ポスターに登場するような「用法用量を守って正しくお使いくださっているユーザー様に支えられている」と疑いなく、信じ切ってしまっているのか。

限度を超えて使用し続けてしまうのは、あくまで消費者個人の責任だ、と。

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他にも、直接的に社会に危害が加わらなくても、ジワジワと時間をかけて変遷していくものだってある。

たとえばテレビや新聞なんかは、「自分たちが世論を扇動したわけではない。あくまで事実を報道しているだけで、今の社会に対して私たちには責任がない」といった素振りを見せることは多いです。

しかし実際は、マスメディアは長い時間をかけて、国民にものすごく大きな影響を与えてきたのは事実かと思います。

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もちろん、これらはすべて企業の道義的な責任の範囲内です。

すべては合法的なビジネスであり、何ひとつ悪いことではありません。

ただし、企業側がそれらをどこまで因果関係があると捉えるのかは、今一度問い直してみたい内容だと感じました。

現在、SDGs関連の影響で、サスティナブルやエシカルという耳障りの良い言葉のもと、どこの企業も必死になって生産背景の見直しを行っていますが、

であれば、販売後の消費者や社会の影響の方にもしっかりと目を向けてみて欲しいなあと思います。

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「善良な一般消費者に支えられている」という妄想に甘えれば、いくらでもビジネスが拡大できてしまう今の世の中で、企業の社会的な責任は強く問われ始めているように感じます。(もちろん個人のインフルエンサーも然り)

これまで続いてきた慣習のなかでは、なかなかすぐに対応できることではないことは重々承知していますが、

だからこそそんな欺瞞に対して「必要悪だ」と割り切ってしまうのではなく、せめて言い訳せずに、自覚的である企業をこれからも支持していきたい。

僕らの世代のためだけでなく、後世を生きる世代のためにも。

そんなことを考える今日この頃です。