私たちは「他者を大事にしましょう」と当たり前のように口にします。

そのとき同時に、理想の他者を相手に投影してしまっている。

良い人間だけではなく、悪い人間に対してもそう。

「こんなふうに良心的な人間であって欲しい、こんなふうに極悪非道な人間であって欲しい」、無意識のうちにそんな理想を他者に投影したうえで、あくまで自分の期待に沿ってくれる範囲内での「他者」を大事にしようと口にしています。

その時に決して、「異質な他者」は想定されていません。

相手が何を考えているのか、全く理解できない「異質な他者」の場合は、すぐに正式な手続きを踏んで、病棟や牢獄、人里離れた場所に隔離してしまうのが現代の社会です。

それが法に則った人類の正当な権利のように捉えて、です。

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さて、話は少し逸れますが、先日100分de名著の『惑星ソラリス』の回を見返しました。

『惑星ソラリス』はポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムのSF小説で、宇宙にある海に覆われた謎の惑星ソラリスに、地球から人間が訪れるという話です。

その星の生命体らしきものは、惑星全体を覆う海そのもの。

そんな海と人間が対峙した時、その海が人間の前に具現化してくるのは、その人間の奥深くに眠っているトラウマです。

つまり、地球外生命体という新たな他者と対峙したと思っている人間が、実は自分が1番見たくないと思っている自分自身と対峙させられてしまうというわけです。

この設定は、本当に言い得て妙だなあと思いました。

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僕らは、他者と対峙するとき、お互いに絶対的な言い分があると思い込んでいる。

だからこそ、神の視点(絶対的な視点)から、何か明確なジャッジを下すことができると信じているわけです。

上述した「法」の執行は、その端的なあらわれと言えるでしょう。

しかし本当は、必ず自己の視点からしか他者を眺めることはできない。

"どこでもないところ"から現実を眺めることは、そもそも原理的に不可能です。

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だとすれば、他者とは本来、このソラリスの海のようなものなのかも知れないなあと思うのです。

自分の視点の持ち方によって、立ち現れ方をいくらでも変幻自在に変えてしまう。

マルクス・ガブリエルの言葉を借りれば、「立ち現れる意味の場は必ず存在する」。

違和感を違和感のまま受け止める、その胆力こそが我々に試されている。

そのうで、結果や、結論を急がないこと。

知れば知るほどわからなくなる、考えれば考えるほど動けなくなる、それは当然のことです。

そして、それで一向に構わない。

それの何がいけないことなのか、他者のせいで何かが立ち行かなくなってしまっていると感じている自分がいるのなら、逆に自己に問うてみたほうがいい。

なぜ私はこの他者によって「苛立ち」を感じてしまっているのだろうか、と。

そうすると、必ず自己の「焦り」や「不安」が立ち現れてくる。異質な他者に問題があるわけじゃないことに気付かされます。

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一方で、他者だけに問題があると信ずる人間は、いくらでも残酷になり得てしまう。

最後は、自分の視界から(この世界から)消えて欲しいと願い、最悪の場合、それを国家単位で実行してしまいます。

そういった意味では、いま世界的に流行している「コロナウィルス」も『惑星ソラリス』の海と同様に「異質な他者」そのものであるということなのでしょう。

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「他者を大切にしましょう」なんて言葉は、もう聞き飽きました。

この言葉は、時代の揺れ動きの中で生まれてくる一過性の道徳に過ぎない可能性もある。

しかし、唯一ハッキリと言えることは、

「我々はどこから来たのか  我々は何者か  我々はどこへ行くのか」

この有名なポール・ゴーギャンの問いは、異質な他者なしでは絶対に考えられない。

私の中に問いが立ち現れてくるために、絶対に必要な存在、それが異質な他者の存在なのではないでしょうか。

最近書いたこの記事にも近い話です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。