最近の若いひとのライフスタイルや、消費行動の変化をみていると「とりあえずなんでも一通り揃える」ではなく、「本当に納得できる欲しいものだけにしっかりとお金を使う」という印象です。

それ以外は本当にこだわらないですし、極端な話、こだわりのないものは、シェアでも全く構わない。

たとえ、セールで投げ売りされているような状態であったとしても、「あるのが普通」や「あれば一目置かれる」系のアイテムには絶対にお金を使いません。

そこに、見栄や体裁は存在していない。

きっと、セール以上に常時投げ売り状態にあるメルカリなどのフリマアプリが、一般化していることにも原因があるのでしょう。

リセールバリューのないアイテムに飛びついてみても、結局損をするだけだと、無意識のうちに気付いているのだと思います。

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この流れ、僕が経験したことのある短い歴史の中だと、90年代から2000年代のファッションの流れにとてもよく似ているなあと思います。

90年代のファッションが全部ブランド、全部ビンテージで一通り揃えていくことが主流だったとしたら、2000年代は古着ミックス(一点豪華主義)になった変化に似ている。

そして、それに伴いメディアにも変化が訪れました。

全部ブランドや全部ビンテージであれば、プロのスタイリストがお店から洋服を借りてきて、その場でモデルに合わせてコーディネートを考えればよかったけれど、

古着ミックスはそれぞれのリアルクローズとなり、その組み合わせこそが重要で、そこに個人の生き様が現れる。

だからこそ、そこから「読者モデル」のブームが生まれていったのだと思います。

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一方、現代の教養本ブームも、この若い世代の消費行動が背景に根強くあるように感じています。

ひと昔前だったら、社会人になったら知っていて当たり前の嗜みも、このようなライフスタイルになってくると、全く知り得ないことも増えてくる。

「これって本当に知らなくてもいいのかな…?これぐらいは少なくとも知っておいたほうがいいのかな…?だって自分の上司は知っているし。」

そんな漠然とした不安や恐怖から、教養”消費”に手を出す若いひとが増えて、出版社がその恐怖をさらに煽っているように思います。

とはいえ、昔のように個々人に潤沢な資金があるわけではありませんから、どれだけ煽られたとしても、無い袖は振れない…。

つまり、多くの教養的な文化は、このまま廃れていく可能性が高いのでしょう。

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よくよく考えると、昔の「帽子」などもそうだったように思います。

昭和から平成の初期には、どの商店街にも必ず帽子屋さんが存在していました。

当時は「大人になったら、背広に帽子という姿が紳士としての振る舞いとして当たり前」だったからなのでしょう。

でも今は、銀座や日本橋といった街であっても、背広に帽子という姿の紳士を見つけることはとっても難しくなってきた。

この「帽子」のように、多くの文化は淘汰されていくのが世の常なのかもしれません。

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このように考えてくると、成長している国では、「なりたい自分を思い描いて、消費行動をする」ので、なんでも一通り揃えるのが普通でした。

一方、成熟した国では、「ありたい自分を思い描いて、消費行動をする」ので、揃っている部分と揃っていない部分が個々人によって大きく異なり、極端になりがちです。

製造者側は、「なりたい自分欲求」に答えて商品を作っている時は、コスパや平均値を気にして商品をつくることが重要になっていましたが、

「ありたい自分欲求」に答えて商品を作るとなると、その極端性に見合うものを作らない限り、消費者側には見向きもされなくなってしまうのが、現状なのだと思います。

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個人的には、この若いひとの消費行動の変化は、かなり重要な変化のように感じています。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。