1日が24時間であることは、みんなに平等です。

しかし、その時の流れの捉え方は千差万別。

そしていま、多くのひとを悩ませているなあと思うのは、その時間の捉え方のほうであり、「社会的共通認識」や「わかりやすい正解」がなくなったことなのではないでしょうか。

今日はそんな仮説について、少し考えてみたいと思います。

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時の流れの捉え方に悩んでいるひとが増えたのは、このWasei Salon内でも例外ではありません。

ここ数ヶ月間に行われた読書会イベントで選書された本は、以下のようなラインナップなのですが、それぞれ全く別の文脈から話題に上がったにも関わらず、すべての本が「時間概念の捉え方」について語られています。

セネカ著『生の短さについて』
エンデ著『モモ』
影山知明著『ゆっくり、いそげ』

しかも、いわゆるライフハック的な「効率的な時間の使い方」などではなく、もっともっと本質的な時間概念の捉え方について語られている本ばかりです。

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思うに、みんなが自己の時計を合わせるような世界標準時間になるような「時の流れ」には、大きく分けて二種類あると思います。

ひとつは、自然の時間軸に合わせた捉え方。

天体の動きや動植物の成長のスピードなど、季節の移り変わりに合わせた時の流れです。

戦前の日本は、まさにこの時間軸に沿って、全員の生活が営まれていたように思います。

しかし戦後、アメリカに負けた日本は、そこから時間軸の捉え方が大きく変わっていきました。

具体的には、アメリカ型の資本主義となり「資本の増殖」に合わせた時の流れで、自分達の時間軸をとらえるようになった。

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しかし、そのような大きな変化も、みんなで一緒に慣れてしまえば、大したことではなかったのでしょう。

なぜなら、時の刻み方というのは息の吸い方みたいなもので、普段は全く意識しないものだから。

周囲の変化、社会のスピードの変化に合わせていればよかったわけです。それが「季節の変化」なのか「資本の増殖の変化」なのかは、その時流の真っ只中にいる人々にとっては微々たる違いです。

そして、戦後も変わらずに続いていた「祭り」や年間行事なんかが、節目節目で時間軸を調整させる機能を果たしたのでしょう。(万人の時計を同期させるような役割)

特に、これからやってくる「年末年始」なんかは、わりと多くのひとが似たような時の過ごし方を現代でも行い続けており、また新たにやってくる一年の節目となっています。

もちろん、それぞれの仕事における打ち上げや、定期的に社内で開催される宴会のようなものも、それぞれの共同体の中で似たような機能を果たしていたのだと思います。

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でもここ2年は、もうそうじゃない。

例年とは全く違う過ごし方を強いられている中、それぞれの時間軸の捉え方はどんどんズレていく一方です。

コロナ以降、アウトドアなどを通じて自然と多く触れ合うようになったひとは、自然の時の流れに意識を持っていかれているでしょうし、

ネットに多く浸り、倍速再生でずっとNetflixなんかを見ていたようなひとでは、その時の流れが当たり前になっているはずです。

もちろん、社会に目を向ければ、「資本の増殖」のスピードは各業界ごとに大きな偏りが生じてしまっている。国家としての共通認識は存在しない。

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このように「時の流れ」に共通認識がない時代には、時間の捉え方を見定めるのが非常に困難です。

自分はどのテンポで歩めばいいのか、周囲を見渡しても、その答えがまったくわからなくなってしまいました。

別の話で喩えるなら、みんなが洋服を着ているときは、自分も洋服を着ればいいし、みんなが和服を着ているときは、自分も和服を着ればよかったのですが、今はそれらが完全に混在しているような状態です。

見た目では区別がつきにくいですが、「時間」においては、まるで服装における明治から大正時代の日本のよう。

さらに難しいのは、これからどちらに向かうべきなのか、その方向性さえも皆目見当がつかないことです。(明治にはわかりやすい「文明化」という方向性が示されていた)

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そんな中、自分はどの方角に進むのか。その葛藤の中で引き裂かれて、悩みが大きくなるのは当然のこと。

自らが本当に進みたいと思える時間感覚、それが何なのかを今一度丁寧に考えていきたい。

これからもWasei Salon内では、名著を軸にしながら「時間の捉え方について」改めて考える場を、積極的に設けていきたいと思います。