今日は、昨日の続きです。

自分のなかにある「私らしさ」の本質がどこにあるか、それが理解できるようになってくると、

相手の中にある「私らしさ」の本質も自然と見えてきます。

少なくともそれが相手の学歴や肩書き、年収や身体的な特徴、性格などではないことはすぐに理解できるはずです。

それよりも重要なことは、目の前のひとが「通り道」としての役割をちゃんと発揮しようとしているかどうか、だと僕は思います。

なぜなら、その人の本質というのは一般的に語られる「偽りの私らしさ」ではなく、その背後にあるのですから。

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では、どうやってその違いを見分ければいいのでしょうか。

具体的にわかりやすい表現としては、「お先にどうぞ」と笑顔で言えるひとかどうかだと思います。

偽りの私らしさに固執するひとは、何度も何度も繰り返されるしつこいテレビCMのように、私の「効果、効能」を必死でアピールしてくる。それが自分にとっての「私らしさ」だと信じて。

いっぽうで、本当の私らしさを理解しているひとは、笑顔で「お先にどうぞ」と他者に道を譲ることができます。

もちろん、いつでも他人に道を譲ってばかりいては、責任逃れしているだけに過ぎない可能性もある。

だから、時には「矢面に立つこと」も必要です。

しかし、その矢面に立つという行為だって、自らがその「通り道」としての覚悟を持っているからこそ自発的に立つのであって、偽りの「私らしさ」をアピールするためではない。

背後にあるその信念を突き通すため。だからこそ、そんなひとは矢面に立ってもびくともしないのでしょう。

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つまり、本当の「私らしさ」を自覚しているひとは、必ず「空洞な部分、空虚な部分、無心な部分」があるのです。

僕の拙い表現で本当に申し訳ないのですが、そうとしか言いようがない。

よーく観察していると、それが自然と浮き上がってくるよう見えてきます。

喩えるなら、同じように太い円柱であっでも、立派な木の幹と、電柱ぐらいの差がそこには存在している。

木の幹のようなひとは、自らの身体を通過させて、地中から受け取った水や養分を、枝葉末節に行き渡らせようとしています。

一方で、電柱のようなひとは、頭の部分についている電線を通じて、流れてきた情報を右から左へと受け流し、その役割や存在を殊更にアピールしてくる。

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その一番わかりやすい違いが、「お先にどうぞ」と笑顔で言えるかどうかだと思うのです。

表現を変えれば、「純粋贈与」を楽しんでいるかどうか。

人間の本領発揮できる場面が「その通り道に徹すること」だと本当の意味で理解できているから、常にその道を整備することだけに徹している。

それはまるで、手入れが行き届いた美しい遊歩道のようです。

これまで、自分の人生の中で出会ってきた方々を思い返してみても、これは本当に強く実感するところ。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。