最近、FiNANCiEを触りながらよく思うのは、今自分が保有しているトークンを適切に配る機会をもっと増やして欲しいなあということです。
これは地味に結構見過ごされてしまっている観点だと思っていて、参加しているユーザーが喜ぶのは、トークン単価が上がることだと思われている。
実際、ここからの仮想通貨バブルに伴って、価格も一時的には上がるんだろうけれど、それで何倍、何十倍になったところで「まあ、そりゃあそうだよね」ぐらいにしか感じないだろうなあと思います。
非常に感謝するとは思うけれども、それだけで何か満たされるものがあるのかと言えば、なんだか違うなと。
つまり、もう「単価が上がること」が最上位の喜びじゃなくなりつつある。
にも関わらず、一般的には「ユーザーには単価が上がることが一番嬉しいことだ」と思われているように思うのです。
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繰り返しますが、当然、自分が投資しているトークンが値上がりしてお金が増えることは嬉しい。それは間違いない。
でも、それ以上に、本当は「配る喜び」があるんじゃないか。
みんなが大事だと感じているものを、他者に渡せたときの高揚感。言葉を選ばずに言えば、気持ちよくばら撒ける機会が大事なんじゃないかと思う。
本当の価値はこっちにあるんじゃないかと思うんですよね。
そうやって、みんなが同様に価値があると思っているものを、気持ちよく配れる機会それ自体が、昨今の喜びの最上位にあるように思うんですよね。
実際、そうやって配れたときに、そしてそうやって他者から自分にもそうやって返ってきたときに、僕らの心は満たされているんじゃないか。
現代における、お金を増える以上の喜びって、意外とこんなところにあるんだろうと思います。
もっと極端なことを言うと、はたらくの真の価値のそのひとつは、この”配る喜び”やそこからお互いに生まれてくる思いやりの創出なのではないのかなと。
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ちょっとわかりにくい話をしてしまっていると思うので、たとえば、ものすごくわかりやすい話をすると、ZOZO創業者の前澤さんのTwitterの事例とかはわかりやすいかと思います。
「お金配りおじさん」と揶揄されて、そのリストが詐欺の温床だと言われていた。いろいろと不都合もあったけれど、でも配ること、ばら撒くことの喜びみたいなものをきっとその時に感じられたんだと思うんですよね。
それは何か大きな企業を作るとか、上場させるとか、日本中の人に使われるサービスとかの比じゃない。それに味をしめたからこそ、お金は有限だけれど、それ以上に価値が増すかもしれないもの、つまり「未上場株」を小口化(トークン化)して、それを配るというのが「カブアンド」というサービスなんだと思います。
また他には、これは多少ネガティブなイメージにもつながりますが、たとえば政治家。
なぜこんなにも批判されて、大した金額を稼げるわけでもない政治家であり続けようと思うのか。
一般人からすると、百害あって一利なしにも思えるのに、とても不思議ですが、その理由の一つはやっぱり「バラマキ」ができるからだと思うんですよね。
逆に言えば、批判されても、お金を稼げなくても、バラまけるということは、ひとにとってそれほど中毒的な何かがあるんだと思います。
一度知ると、忘れられない喜びがあるということだと思うんですよね。良くも悪くも。
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だとすれば、大事なことは「お金を稼げますよ」とか「お金を増やせますよ」とか以上に、直接本人が配れる機会の創出だと思うんです。
今は、ここがファウンダーとかに限定されてしまっている。その配る作業自体が楽しいから。
もっというと、稼ぐことがむずかしいトークンみたいなものに、なぜこんなにも熱狂するオーナーが多いのかと言えば、ここに理由があるはずで。
だとすれば、「持たざるものは配れない。配れるのは持てるもの、富裕層や強者の特権」とするのではなく、持たない者でも、配れるような仕組みの設計と構造が大事になってくるんだと思うのです。
そして、それはトークンという仕組みにおいても最適であるはずで。
無から有を生み出して、たとえそれが額面通りには受け取れない共同幻想であっても、擬似的なお金配りごっこができる。
そして、よりコミュニティ全体に貢献した人には、配った以上のものが届くという、その好循環も生み出せる。
僕は、ここにトークンの価値があると感じています。
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時期的な意味も込めて、もっと比喩的に言えば、きっとみんな、サンタクロースになりたいんだと思うんです。
一般的には、サンタさんは身銭を切って与える側で、プレゼントもらえる子どもたちのほうが一番の喜びの享受する主体だと思われているけれど、でも大人になるにつれて、実はサンタさんになれることに喜びがある。
それはプレゼントを貰える子どもの比じゃないということが少しずつ理解されいく構造ってあるじゃないですか。まさにあれです。
そうやって、もらえることよりも、価値あるものを実際に自分の裁量で配って、喜ばれることのほうが、人間は嬉しい。
本質的には「贈与の主体になりたい」と思っているのが人間ということなんでしょうね、きっと。
しかも、政治家みたい、仲間内で使いこんだり着服したりではなく、そこに傾斜配分をしないというか、公平性を持たせて配れたときの喜びは、たぶん人間にとって本当に喜ばしい魂レベルの喜びにつながるのだと思います。
ということで、ここから重要になることは「配れる機会やチャンス、その民主化」なんだと思います。
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これは少し残酷な話になるかもしれないが、もはや生きていること、そうやってステーキングしてくれていること自体が、事業拡大において最も価値のある「労働力」になりつつある。
だからこそ、カブアンドのような取り組みも生まれているのだと思う。さまざまな消費行為がある中で、あのサービスはあえて、ライフラインの契約を変えてもらうことにしたのは、本当にそれを顕著にあらわしているなあと思います。すごい先見性。
ただ、ユーザーが生きていればいいだけですから。しかもそれ自体が社員と同じような労働力となる。
それ以上のことは、もう意外と不要なんですよね。変な言い方ですが、そこに居続けてもらうこと自体が、いちばん生産効率がいい。
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これはものすごくネガティブな言い方をすれば、自分から「マトリックス」に繋がっていてくれることが、資本を大きくする上で最も効果的な時代が来ている。
もはや労働さえ必要ないというか、無駄な労働は邪魔な世界観すら生まれつつある。「労働なんかしなくていいから、そこにただステーキングしていてくれ」という世界観なわけです。
労働の搾取ではなく、存在の搾取。
それが一番生産性が高く、資本効率もいいのが現代の世の中。
ものすごく残酷な考え方だけれど、資本主義社会が行き着くところまで行き着いて、資本の増殖の観点から言えば、このような流れは今後ますます加速していくと思います。
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で、今はまだ、そうやって繋がり続けてもらうためには、わかりやすいインセンティブを提供すること、つまりお金が増えこと、そうすれば人は居続けると思われているんだけれど、でもそれではひとは孤立してしまう。
「価格が上がるから」という理由で、黙って持ち続けている状態というのも、なかなかに辛い状況なわけですよね。
ブレーズ・パスカルの名言にもあるように「全ての人の苦悩は、静かな部屋に一人で座っていられないところから生じる」わけですから。
たとえそれが100%無駄であっても、何かをしたいわけです。
そのときの一番理にかなっているなあと僕が思うのは、価値あるものを配れる、それが一番の喜びであることにもつながるはずで。
大阪のおばちゃんの「アメちゃんを配る行為」なんかとかもきっとそうだと思うんですよね。それが、ある種の生きがいにもなっていく。
そのときに、ステーキングしておいてもらうこと、その場から立ち去らないでいてくれるようにするためには、「グルグルと、循環してまわっていること」そうやって動的な状態においてステーキングと同様の効果を持つことがきっと重要なんだと思う。
本当に大事なことは売られないことではなく、その経済圏から資本が流出しないことなわけですから。
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最後に、当然ですが今日の話を、悪どい感じで実現するのではなく、配っていることで本当に何か貢献感を感じて、あたたかな心の交流を感じられる空間を作り出すことが大切だと思っています。
たぶん、これからの時代につくり出すべきはそんな構造なのではないでしょうか。もう何か、新しく生産性高く生み出していくような「会社」ではなくて。
そういう従来的な価値ある会社はAIで半自動化されていく未来は、間近に迫っている。なんなら既に到来をしている。
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ということで、FiNANCiEのトークン発行者の方々においては、ぜひともいい感じの配れる機会を作って欲しいなあと思う次第です。
もちろん、Wasei Salonのポイント機能もそうやって、配っていくこと、お互いにやり取りする中で、親交が深まって、健やかな繋がりが醸成されていく環境を、淡々とつくり出していきたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/11/13 21:10