最近、SNSにおける複数アカウントの文化について考えることが多いです。
一人の人間が、匿名アカウントで複数アカウント(いわゆる複垢)を持つことは、現代では当たり前のように語られていますよね。
でも、そこには見過ごせない落とし穴もあるんじゃないかと僕は思っています。
今日はそんなお話です。
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というのも、匿名でSNSを始めると、その発信主体における「合理性」だけを追求してしまう傾向にあるなと感じるからです。
「その世界での最大の効果を発揮するためには何をすべきか」そればかりを考えるようになってしまう。
そこには当然、自分という固有名詞の人間としては、立場上、決して言えないことも含まれているわけですよね。
逆に言えば、この「葛藤」が複垢文化を生み出している一因なのだと思います。アカウントを切り分けることで、それぞれの場所で、思う存分語れてしまう。
良くも悪くも振り切って、誰でもある種のサイコパス的な振る舞いが可能になる。
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個人名においては、ホリエモンぐらい振り切ることはできなくても、特定のジャンルにおける匿名アカウントであれば、誰でもホリエモンぐらい振り切った発言ができてしまうということです。
たとえば最近だと、仮想通貨や投資関連がトランプ相場で賑やかですが、その界隈の匿名アカウントなんかを見ていてもそんなことを強く思います。
匿名で最適化されたことで、水を得た魚のように、生き生きと発信している。そこでは、SDGsに配慮する必要はないし、ただただお金が儲かるためにはどうすればいいのかということを言っていれば、一定の注目を集められる。
でもそのひとにも本来は、家庭や学校、会社や友人関係など多種多様なしがらみによって言えないことがあるのが、当たり前で。
むしろ、そのしがらみで言えないことがあったからこそ、匿名アカウントをつくったということだと思うのですが、でも「だったら言えなくていいじゃん」と思うんですよね。
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逆に言うと、そのような固有名からの立ち現れてくるような葛藤から逃れようとしてしまうから、人間的な成熟にもつながらなくなってしまうのではないか。
ここが今日の本題でもあります。
これはホリエモンのような振り切り方や、サイコパスなひとを批判しているわけではなくて、個人名のもとにそのように振る舞う分には全く問題ないと思う。
最近、ピーター・ティールの評伝を読んだのですが、彼なんかもまさにそう。「無能より邪悪であれ」という本のタイトルの通り、まさに振り切っていました。また、イーロン・マスクなんかも言わずもがな。
そうやって、ひとりの個人名でたくさんのことをやってみるのは良いと思うけれど、匿名にして人格を分けて各ジャンルごとに最適化するのはあまりよろしくないだろうなあと。
言い換えると、極端な文化に走るなら走るで構わないけれど、最初から人格分裂させてしまうのは百害あって一利なしではないか。
それは、成果が出ないからではないです。成果は出る、当然です、振り切っているんだから。ただ、葛藤の先にある成熟に出会えない。
一つの人格の中で主張し続けられること考え続けることも、一方でとても大事だなと思うのです。
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これはたとえば、最近流行りの「言語化」の話なんかもそう。
ただ語彙能力の問題で、語彙力不足の問題だったら、本を読んで語彙力を増やして豊かな表現力を身につければいい。
最近だったら、生成AIだってそれを補助してくれます。
でも、今の言語化を巡る文脈は、また違うもののように僕には見える。
言いたいことを何でも言えるようになること、何かを極端に振り切れることを良しとしてしまっているように感じています。
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自分の物語に矛盾が生じた時に、人は「言語化できない」と苦しむ。推し活なんかでもそうです。
「このアカウントでは言うのが憚られる。でも言いたい、言葉にしたいんだ」と。
しかし繰り返しますが、その「言えない」というストッパーがあるからこそ良いのだというのが僕の持論です。
そういうズレや葛藤、もっと言えば「言えない」という体験こそが、実は重要な要素なのではないだろうか、と。
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これは内田樹さんが以前、「私のヴォイス」ということを語るブログの中で書かれていたことなのですが、
「どんなに修辞的に熟達しようと、自分自身の思想や感情を完全に過不足なく表現するということは人間の身には起こりえません。すべての言葉は言い足りないか言い過ぎるかどちらかです」と語られていました。
この話が個人的にはとても強く印象に残っています。
本来、言葉というのは、一生ズレ続けるもの。それは自らも日々書いていてもそう思います。
たとえ365日10年以上書いていても、今日は言いたいことをピッタリ言えた!と思った日など一日もありません。
そのズレを完全に修正し一致させたいというのは、観念の世界ではいくらでも想像できてしまうのだけれども、そもそもそれは不可能だし、そうあってはならないとも思うんですよね。
個人としての葛藤をなかったことにして、すべて振り切ってしまうということにもつながってしまうわけですから。
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内田さんは先程の文章に続いて以下のように書かれていました。
そもそもそれが「ほんとうに言いたいこと」だったかどうかなんて、誰にもわからない。私自身にもわからない。でも、現にその言葉が口にされた以上、「そのようなことを言いそうな人間」として自分を構築してゆくプロセスはもう起動している。人間が自分自身についてある程度首尾一貫性のある「物語」を語ろうとするならば、「一度口にした言葉」は自己史の文脈にやはり適切に位置づけられなければならない。私たちは現にそういうことを日々やっているわけです。
引用元:入れ歯でGO - 内田樹の研究室
この構築していくプロセスのほうが、僕は大切だと思う。自分というものは、そうやって立ち上げていくものだと思うからです。
何か確固たる自己が存在し、その人間の中に100%の主張があって、それを言語化しているわけではない。
そうじゃなくて「言い足りない、言い過ぎた。これは言えない、これは言える」そんな試行錯誤と葛藤を通して、結果的に立ち現れてくるのが、自己の嘘偽らざる本当の姿だと思うのです。
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とてもわかりにくい話かもしれないので本当に申し訳ないのですが、私の想いや考えがまずあって、それを表現するための道具として言語があるのではない。
はじめに言葉があって、そこに乗っかるように私の想いが形成されていく、その順序のほうがきっと正しい。もちろんこれは鶏と卵のような関係ではあるけれど、そのようにして私の想いは初めてつくられるんだと思います。
だとすれば、その違和感や葛藤を匿名複数アカウントにして、スッキリ解消してしまおうとすることは、本当にもったいないことだなあと。
ひとつの人格、ひとつの物語の中に立ち上げていく過程こそが、人間の本質なのに。
それは、自分の顔が気に食わないからという理由で、原型もわからないほどに整形してしまうのと同じではないかと思ってしまいます。
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じゃあ、ここで問題になるのは、ひとはそれでもなぜ鋭い言語化と、それを付託できるバーチャルのアイデンティティを望むのか。
それは、情報発信やSNSの構造によって、評価する側から自動的に規定されてしまっているからだと思うんですよね。
つまり、個人の選択の問題というより、現代のSNSプラットフォームが持つ構造的な問題なのだろうなあと。
プラットフォームは往々にして「完璧な」表現や「理想的な」ペルソナを求めがちで、それが人々を複数アカウントへと誘導している側面がある。
整形の問題なんかも全く同じ。自分の顔が嫌だと思わせられているのも、「憧れの対象」として100%整っている(ように見える)ものを、SNS上で見せられるから、そのように改変したいと願う。そうやって、「他人の欲望」を欲望させられているだけなんですよね。
僕らはその思い込みに合わせて、よりズレの少ない匿名複数アカウトを運用しようと考えはじめる。でも、この時点で、何かがおかしいと気づきたいものだなと。
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じゃあ最後に、常に一貫性があることを個人名のおいて言葉にすることが正しいことなのか。
今日の話の流れだとそんな印象も抱かれてしまうかもしれないですが、それも、決してそうじゃないと思っています。
このあたりも、本当にややこしい話でごめんなさいと思っているのですが、そもそも本来、ひとは変化するもの。
常に変わり続ける動的平衡のような存在のなかで物語、それ自体を継続しようとすること。
間違っていれば再出発し出直すことも、ものすごく重要です。というかきっと、この再出発の方にこそ、個人のアイデンティティや物語の本質は宿るのだろうなあとも思います。
葛藤が存在しないと、この再出発の契機も訪れない。それが本当にもったいない。
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バーチャルは人格を複数持てるから、分けるのが正解となっている現代だけれども、そちらに逃げてしまうと、せっかくの葛藤のチャンスを逃してしまう。
せっかくなら、その葛藤を経由した先にある成熟に向かいたいものですよね。
「私という固有名においては、スッキリと言語化できない」というその節度こそが、人間的な成長にもつながるはずですから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話がなにかしらの参考となっていたら幸いです。