村上春樹の小説、特に長編小説を読んでいると「経済的合理性よりも、対等な関係を望む」というシーンがしばしば登場します。

これは村上春樹作品の特徴的な要素の一つだと言えるあと思っています。

具体的には、主人公と、全くお金困っていない富裕層の登場人物が、しばしば何かしらの関係値を築く中で、お金が必要となるシーンに出くわしたときに、富裕層の善意の援助に対して、主人公が断るというシーンです。

たとえば『ダンス・ダンス・ダンス』では、主人公がひょんなことをきっかけに、富裕層の子どもの面倒をみるというシーンで、そのための必要経費を渡されそうになるけれど、明確に拒むシーンがあります。

また、『スプートニクの恋人』でも似たような形で、主人公がひょんな事件をきっかけに、富裕層から呼ばれて突如ギリシャに向かうというシーンがあるのですが、このときも日本からギリシャまでの交通費を断る。

さらに『騎士団長殺し』では、画家の主人公が富裕層の依頼で、とある少女の肖像画を描くことを依頼されるのですが、その時も主人公はその富裕層からの依頼にもかかわらず、その代価を拒みます。

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それぞれ、何か明確な理由があるわけではなく「そうしないほうがより自らが『自由』でいられて、主体的な選択ができるような気がするから」というような理由で断るんですよね。

でも、どの主人公も、ほぼ無職に等しい状態であって収入も途絶えているような形なので、このような臨時収入や必要経費は本来なら喉から手が出るほど欲しいような状況。にもかかわらず、それでも主人公たちは、自分の貯金を切り崩しながら、それらに取り掛かろうとする。

僕はこういうシーンに出くわすと、すぐに無意識にアンダーラインを引いてしまいます。

なぜか単純に、個人的にとても好きなスタンスなんですよね。他にも短編小説などでも、似たようなシーンを挙げればキリがないと思います。

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ここまでの説明だとわかりにくいところもあるかもしれないので、実際に断るシーンをちょっと引用しておきたいと思います。

以下は『スプートニクの恋人』からの引用です。「ミュウ」という人物が富裕層で、全くお金に困っておらず、主人公をギリシャに呼びつけた張本人です。

食事が終わって、コーヒーを飲んでいるとき、ミュウは飛行機の料金のことを持ち出した。そのぶんをドルのトラヴェラーズ・チェックで受け取ってくれるかと彼女はたずねた。あるいは東京に帰ってからあなたの銀行口座に日本円で振り込んでもいい。どちらがいい?    今のところお金に困っていないし、それくらいの費用は自分で出せるとぼくは言った。ミュウは自分が払いたいと主張した。わたしがあなたに来てくれるように頼んだのだから、と彼女は言った。     
    ぼくは首を振った。「べつに遠慮しているわけじゃないんです。もっとさきになって、ぼくは自分の自由意思でここに来たという事実を求めるかもしれない。ぼくが言いたいのはそういうことです」


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これは、自らの主体性をすべては決して明け渡さないという意思表示であり、それはつまり「魂」の話なんだろうなあと。

そして、大抵の場合、何か明確に理由があるわけではなく、本当に直感的にそのように判断する場合が多い。

読者としては「あっ、ここで断るんだ」と、なんだか不意をつかれる感じが毎回あります。

そんな各主人公の「魂を売り渡さないでおきたい」という漠然とした直感みたいなものに、ものすごくハッとさせられるというか、ある種の感動さえ覚えるわけです。

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もちろん、富裕層でお金に困っていないキャラも、何か下心や意図があってそのようなお金を差し出してくるわけでもない。なんなら本当に善意100%で、自らが負担するべき負い目があったりもする場合も多く、だから、主人公が拒む理由もまったくなかったりする。

でも、もしここで、その客観的な正しさや因果関係を依り代にして、ズルズルとその自己正当化し、それを受け取ってしまうと大切な何かが失われる。

だから両足を突っ込まないで、あくまで自分の主導権を自ら握っておきたいというような感じで描かれるわけなんですよね。

そのある種の「踏み込まなさ」というのはキレイな言葉で言えば「自主自律」ですし、嫌な言い方をすれば、巻き込まれすぎないように、あえて適切な距離を取っているということでもある。

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あと、これは完全に余談ですが、魂といえば、最近みつけておもしろかったのが、心理学者・東畑開人さんがTwitter上で紹介していた、河合隼雄さんが語る「魂」の定義がおもしろかったです。

”お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。”


この河合隼雄さんの定義を踏まえて東畑さんは「つまり、AかBかでうまく割り切れなくて困っているときに、魂が自己主張している。逆に言えば、気持ち良く割り切れてるときには、魂はその選択に関与できなくなっている。」とコメントしているのですが、このコメントも含めて、本当にものすごくいい定義だなあと思います。

この定義を踏まえると、村上作品の主人公たちの行動がより深い意味を持って見えてくる。

彼らは、経済的利益と精神的自由という簡単には割り切れない選択を眼の前にして、葛藤しているのだと思います。そして、その葛藤の中で、彼らの魂が自己主張しているのだと解釈できるなと。

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で、話をもとに戻すと、これが結果的に物語にとってフリになっていることもあれば、なっていない場合もある。

ということは、別に究極的には物語の主流においては割とどっちでもいいことのほうが多い。もちろんメタ的に見て、何かそこに思想的な教えみたいなものが暗に埋め込まれているわけではない。

そして、それぐらい、どっちつかずな話、ストーリーに直接的に影響を与える選択肢でもないから、僕は余計にこのような設定が好きなんだろうなと思うのです。

言い換えると、僕はこの「どちらでもよさ」にこそ村上春樹の巧みさがあると考えています

たとえば、これが毎回のように、あのときに富裕層から、お金を与えられることを拒んだことが功を奏して何か主人公が救われたり、

もしくは、あのときもらっておけばよかった、と後悔するようなシーンが毎回埋め込まれていたら、きっと僕はさほどこのような一連のシーンに、強く影響を受けていないはず。

それだとちょっと教養小説的過ぎるし、一気にリアリティがなくなってしまい、読み手としても冷めてしまう。

変な言い方かもしれないですが、読み終えたあとしばらくしたときに、「あのとき黙ってもらっておけばよかったのに、なぜそうしなかったのだろう?あのシーンの意味とは一体…?」ぐらいに頭の片隅で思い出すぐらいがちょうどいい。

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ただ、いつも同時に思うのは、このシーンに漠然と憧れるのもどうなんだ、ということなんです。

というのも、主人公がこのような選択が取れるような仕掛けも、大体において必ず同時に存在する場合が多いんですよね。

具体的には、主人公にはお金はないけれど、そのような交渉の場面においては、現状眼の前のお金には困っていないというような、かなり偶然性の高い状況に置かれている。

なんだか言葉にするとすごく矛盾するようだけれど、そういう言い回ししかできない状況にある場合が非常に多いんですよね。

たとえば、『騎士団長殺し』で言えば、ほぼ無職に等しい主人公にもかかわらず、ちょうどその前に別の肖像画が売れていて、自分の懐にある程度まとまったお金が転がり込んできているタイミングだったりする。

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つまり、なぜか小金はあるという状況にあって、それがまた僕の頭を悩ませるわけです。

選んでいる余裕がないけれど、その瞬間においてはやはり選べる側であるということ。

すべてを受け渡さないでおける矜持を保てるだけの金銭的余裕が、決して十分ではないけれど辛うじてあるというような、ある意味では特権的な状態でもあるんですよね。

村上春樹さん自身がそこまで考えて、このような描写を毎回描いているのかどうかはわからないけれども、

でもやっぱり、いつだって「ちょうどよく」完全に相手の支配下には入り切らないような状況をつくれるだけの「自由」があることが前提になっている。

このような選択ができる存在であることは、間違いなく恵まれた状況です。

現実世界には、そのような選択さえできない人々が数多く存在しています。そう考えると、この自主自立を尊ぶ姿勢もまた、ある種の特権的な立場から生まれているものだと言えるような気がしてしまう。

言い換えると、このような選択肢を取れるような豊かさをすでに享受しているというふうにも言えなくもないわけです。

だから、手放しにこのスタンスをあまりにも言祝ぐこと自体も、良くないような気がしてきます。

少なくとも、それは自らのスタンスを顧みるときにだけにこそ用いるべきであって、自分以外の他者がそうしていないからという理由で、何か評価するようなまなざしを向けてしまうことは間違っているんだろうなあと思いますし、自分自身も、時には本当に支援してもらわないといけないタイミングもあるんだろうなあと。

それが自助・共助・公助のバランスを考えるうえで、とても重要なこと。自助だけに頼りすぎる気高さみたいなものを、手放しに礼賛しすぎることもやはり、どこか新自由主義的なんだろうなあと、自己の価値観になんだかハッとさせられたというわけです。

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とはいえ、魂の話は、きっとこれからの世の中において、より一層重視されることは間違いない。

価値観が多様化し、格差も広がる一方なわけですから。片方にとっては無価値に等しいものであっても、片方にとっては喉から手が出るほど欲する場合もある。

でも、それを与えてもらった瞬間に、自らの魂を売り渡してしまったと感じてしまうものがあるというのも、また事実。

じゃあ、自分にとっては、その魂を明け渡さなかったと思えるラインとは、一体どこにあるのか。

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もちろんそれはお金の話だけに限らないし、さまざまな場面で譲り譲られ、助け助けられ、という状況下においてその都度発生し、その都度自らに“どっちでもいい”選択が迫られることもある。

そのような葛藤と、その中で保つべき気高さの一つの参考にしたいあり方、それを非常に上手に描いてくれている作家が村上春樹さんだなあと思っています。

また、このような描写の連続性みたいなものも、同一の作家の作品を網羅的に読まないとなかなか気付けないことでもあり、おもしろいなあと思ったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。