その大きな目的は「他者に何かを伝えるため」です。

「ここに、こんな商品、サービス、空間がありますよ」と。

つまり、自分以外の他者から選ばれるために、そのわかりやすいメッセージとして旗を掲げるわけですよね。

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でも、旗を掲げることで実際には何が起こるのか。

100人いたら、99人に素通りされるようになるのです。つまり、ひとりの「これは、私のためだ」と感じる人と引き換えに、99人から「圧倒的に選ばれない」という体験を繰り返すことになります。

これは、多くの人にとって想定外の出来事です。選ばれるために旗を掲げたのに、選ばれないという経験をし続けるわけですから。

そして多くの人は、旗を掲げたときに思い描いていた最初の期待ゆえに、その落差に絶望し、その圧倒的な選ばれなさに嫌気がさして辞めていく。

もちろん、それが経済的な理由となり辞めざるを得ないという状況もあるでしょう。

そして、心に決めるわけです。

選ばれないことがこんなにも辛いなら、私が「選べる選択肢を持つ」のだと。

「選べる自由を持てる」その他大勢になることを切に願うようになる。そのためには、一体何が必要となるのでしょうか。

そう、「お金」と「社会的信用」が必要になります。

だからこそ、大企業の社員や国家公務員など、ある程度の「お金」と「社会的信用」を手にできる職業が人気となるわけです。

これは一人の人間の中に起きる経験だけではなく、例えば親子など世代間を超えて起きる現象でもある。

だからこそ、親が旗を掲げて挫折した経験があると、その子どもは選べる側にまわることを強く教育されることになります。

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さて、「できるだけ多くのひとに選ばれたい」その願望自体は非常に尊いことだと思います。

でも、旗を立てるということは、同時にその「選ばれないリスク」も背負い、それで出会える一握りのひとたちと出会うチャンスのほうに自ら積極的に踏み出していくということなのだと思うのです。

言い換えれば、100人中 99人に素通りされてしまう恐ろしさ、無視され続けることに堪えること。この事実が意外と語られていません。

原始仏教では、何か過ちを犯したメンバーに対しては、無視することが一番厳しい罰だったそうです。

子どもたちも、誰に教えられたわけでもないのに「無視する」ことをいじめの常套手段として活用します。

それぐらい「無視される」ことは、人間にとって根本的に辛いこと。

でもだからこそ、自ら積極的に旗を掲げて、選ばれないリスク、無視されるリスクを背負うことからしか、自己の人生は始まらないと僕は思うのです。

私の「活動」や「働き」、つまり私の生きる意味を必要としてくれるひとに出会うためには、自ら旗を掲げるしかない。

だからこそ、選ばれない、無視されることのリスクを承知のうえで、自らの旗を掲げること意図的に選び取っていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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