Podcast番組「なんでやってんねやろ?」の最新回のなかで、とても嬉しいお便りが紹介されていました。
それがどんなお便りだったかと言えば「この番組をきいて、そのあと、日常生活に立ち返ったときに、無意識のうちに『自分の頭で考える』ということをしている」と。
その「答え」ではなく、「問い」を生み出してくださるお三方のトークに魅力を感じていますというお便りをいただいて、こうやってこの番組を聴いていただけるのは、本当に嬉しい限りだなあと。
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まさにこの番組は、タイトルも「なんでやってんねやろ?」というタイトルですからね。
演者のみなさんも、答えなんか全然わからない中で、それぞれの事業に日々真剣に取り組まれている。そして、自分たちも問い続けているだけで、なんでやってんねやろ?と思ったりもしているわけです。
そして、そんなテーマのもとに、何気ない日々の雑談のように番組内でランダムに話すからこそ、その問い自体も、自然と生まれてくるのだと思います。
これがもし解説系やレクチャー、セミナー系のPodcastコンテンツだとこんなふうには聴かれないと思っています。
やはり、聴いている側も「知らないことを教えてもらおう!」というスタンスで聴いてしまうわけですからね。問いではなく、答えを提供されていると思い込んで聴いてしまうわけです。
でも、この番組は違う。坂ノ途中の小野さんは比喩表現が本当に上手で「この番組は、乱数発生器だ」と表現されていました。
「問いを立てる力がある人が聞けば、その乱数をもとに、自然と自らの問いを立てることができる」と。それは本当に言い得て妙だなあと思います。
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で、僕は何かコンテンツに触れるというのは、このような効果効能を味わうためのものだと思っています。
もちろん、読書なんかもまさにそう。
「何冊の本を読んだ」とか「本を読んでいる私自身に酔いしれる」とか、そういうことじゃなくて、自らの中で問いが立つための乱数発生器として、本を用いることが、本を読むことの意味だと思っています。
以前シラスの動画の中で東浩紀さんも、このような読書のあり方を「行間にかかれている自分と出会う」というような形で確か表現をされていました。
動画の中の何気ない言葉なので、その記憶自体も定かではないけれど、でもこれは本当にそう思うのですよね。
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「行間に書かれていない文章を読む」という話はよく語られるけれど、それはその本や小説の世界の中だけではなく、その本と実際に向き合っている自分の中から立ち現れてくる「自己」も含まれているわけですよね。
つまり、読書はそうやって「鏡」のような役割を果たしてくれるわけです。
それを「行間に立ち現れる自分と出会う」と表現するのは、非常に優れた表現だなあと思います。
ちなみに、これを上手く描いた児童文学作品がミヒャエル・エンデの『果てしない物語』でもあると思っています。
行間から溢れ出てくる自らの問いに対して、自分なりに考えるためにこそ、本を読む。それが「自分自身で考えてみる」という行為であり、読書における一つの効用なんだと思います。
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でも、多くの人はそうは捉えていない。
何か「答え」を得るために、コンテンツに接触してしまう。それはSNSなんかもそうですよね。
たとえば今、政治家の不倫の問題に対して、本当に多くのひとが色々な意見を語っていますが、これもまさにその一つの現象だなあと思います。
今回は、あからさまな「政治家下ろし」の上で画策されたことであり、それがあまりにもあけっぴろげなタイミングで行われたから「こんなことで、政治家を辞めさせるな!」という意見が、意外にも主流派になっている。
そして、その文脈から「清廉潔白か、有能か」そんな二項対立で、「私達は一体どちらを支持をするのか?」みたいな語り方もされているわけですよね。
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何か議論が巻き怒って、その正解を知るためにSNSを見ていれば、
「なるほど、今回は財務省やそれに類する引きずり落としたい人たちの画策なんだな」と思って、だとすれば「有能である方を選ぼう!」となるわけですが、でも、僕は本当に、この二者択一なんだっけ?と思うんですよね。
そもそも「清廉か、有能か」として、トレードオフとして考えることなのかと。
当然、僕だって「無能で清廉潔白な政治家」よりも、「有能で、清濁併せ呑む政治家」を選びたいけれど、でも果たして本当にそうなのか。
それはそれで、自分の意見の正しさを証明したい人たちのレトリックに過ぎないのではないかと思います。
もちろん、自分の考えと完全に一致していて同意しているひとたちも多いとは思いつつも、このあたりはまさに自分の頭で考えていきたい問いだなと思ってしまいます。
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あと、これは完全に余談ですが、そもそもこういうタイミングで「エロス」とは何か、そもそもこの概念はどう捉えられていたのか、みたいなことを考えるきっかけにしてみるのも、おもしろいだろうなと思います。
過去に何度もご紹介してきた心理学者・河合隼雄さんの『中年危機』の中には「中年とエロス」の章がまさに設けられていて、僕にはこれがとても強く印象に残っています。
で、そもそも、古代ギリシャにおいては「エロスは人間的な相手ではない」とみなされていたそうです。
なんだかハッとさせられた話ですし、せっかくなので、ここでも少し引用してご紹介してみたいと思います。
ギリシャ神話において、初期のころには、エロスは擬人化されず、人を襲う激しい肉体的な欲求、心身を慄わせ、なえさせる恐るべき力とされていた。それは形をもたない力であった。
(中略)
エロスを擬人化しなかったギリシャ人は、それが「人間的」な相手ではないと思ったのではなかろうか。話し合いで解決がついたりはしない。それは自然現象の洪水や山崩れのように「抗し難い力」として出現してくる。しかし、人間の「理性」が発達してくると、何とかそれに対抗し、コントロールしようとする。
これは本当におもしろい話ですよね。
つまり、もともとはコントール可能な対象としてはとらえられていなかった。もっと、自然災害のようにして捉えられていたわけですよね。
でも今は、それをコントロールすること、節制することから、話はさらに飛躍して「欲望それ自体を断罪する」という方向に世論が向かってしまっていたわけですよね。
だから、公人にも関わらず、そのような欲望を持った時点で完全にアウトなんだ、辞めさせろという話にもなっていた。
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でも、そのような「欲望の断罪」が現代はあまりにも行き過ぎているから、その反動や大きな揺り戻しで、「有能であればそれでいい」というような極端な発想も同時に生まれてくるわけです。
今回のアメリカのトランプ現象なんて、その最たる例だと思いますし、今回の政治家の件によって、奇しくも日本でも、全く同じ議論が巻きおこってしまっている。
つまり、あまりにも倫理観や道徳観で強く抑制しようとしてきてしまったから、見事にその反動で「政治とプライベートは切り分けろ。清廉か、有能か」というそんな二者択一の議論までになってしまっている。
でも、冷静に考えてどっちも違うでしょう、と僕は思う。
つまり、「エロス」の根本的な部分から考えてくると両者の主張は真逆のようでいて、実は全く同じところから発生しているような議論であることも、よくよく理解できると思うのです。
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で、このような極端な二項対立を許せば、そこに成田悠輔さんの主張みたいな感じで「もう政治家なんて、全部ネコにやらせればいいじゃん」というような冷笑的な態度も生まれてくる。
そんな冷笑系が付け入る隙も、与えてしまうわけですよね。
そして僕自身も、こういう対立が深まれば深まるほど「本当にもう猫で良いんじゃないか…」と半分諦めムードで思ってしまいます。
実際、今回のサイレント・マジョリティもきっと「もう猫でいいじゃん」って思っているひとはかなり多そうだなあと。
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対立する両陣営が、正義感を剥き出しにすればするほど、誰も望んでいない方向に進んでしまうジレンマがここにある。
それが、トランプのような極端なスタイルや、冷笑系が跋扈するような世の中を生み出してきたのが、まさにここ10年の世界の変化だと思います。
でも、それを生み出したのは紛れもなく、自分たちの正義感なわけです。
そして、何よりも自分では考えずに、ただただ答えらしいものを大声で語る人たちの意見に流されてきた人々があまりにも多かったがゆえに、そうなっていったんだと思います。
だからこそ、世の中の大きな声に流される前に、自分でちゃんと考えたい。
一度立ち止まって考えみても、まったく遅くはないわけですから。
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そして、必ずしも答えなんて出す必要もない。わからなければ、わからない問いとして置いておけば良い。それを誰も咎めはしない。
一つの答えを、はやく出さなければいけないという強迫観念から、何か強くて大きな意見に流されてしまうわけだけれども、世の中の9割のことは、自分とは直接は関係ないわけですし、焦って答えを出す必要がないことでもあります。
それよりも、自分だったらどう思うのか?そうやって問いを立てて、しっかりと考えるクセを持つことが、本当に大事なことだなあと僕は思います。
それがきっと思考の胆力にもつながるし、そういう思考の胆力を持ち合わせた人たちが集う場として、Wasei Salonはこれからも続けていきたい。
世の中の流れとは一線を画した、静かに問い続けられる場所として継続していきたいなあと思います。
これから世の中はより一層、このような政治的議論が活性化していくことは間違いないと思いますから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。