今日は特に何か結論めいたことがあるわけではなく、ある種の思考実験みたいな話です。

最近、NHKの放送100周年を記念してつくられている「カラーでよみがえる映像の世紀」をNHKオンデマンドでよく観ています。


この番組は、1995年に放送された「映像の世紀」を、AIの技術を用いてフルカラーにしたバージョンのリメイク番組です。

もともと古い方の放送内容もネット上で全部見たことがあるはずなのに、まるで新しい番組を見せてもらっているような気分になる。

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で、この番組をずっと観ていると改めてすごいことだよなあと感じることがあります。

それが一体何か?といえば、当時この映像を実際に白黒で撮影した人々どころか、きっとこの番組を実際につくった95年当時のNHKの番組スタッフでさえ、30年後に自分たちの番組がカラーで再現されることなんて、考えてもみなかったはずだということ。

それの一体何がすごいの?と不思議に思う人もいるかもしれないのですが、だとすれば、ですよ、今のツールで何が記録できるなんて、究極的、本質的にはわからないんだろうなと。

具体的には、今僕らが当たり前のように使っているスマホで撮影した、その1枚の写真が、その1本の動画が、そのまま世界そのものを再現してしまう可能性だって十分にあり得るんだろうなと思うのです。

生成AIは基本的には、次に来る文字や映像が何かを予測してつくられている。

だとすれば、昔のロールプレイングゲームで壁にぶつかってその先に進めないではなく、無限に広がっていく3Dゲームのように、30年後ぐらいにはAIのちからによって無限にその先を生成できていても何にも不思議じゃない。

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で、これを踏まえると、今つくっているものも、そうやって受け取られていくわけだから、これは贈与の話と、ダイレクトに繋がるなあと思ったんです。

マルセル・モースが『贈与論』で示したように、贈与とはそもそも、贈った瞬間には完結しない、未来に向かって開かれた行為です。

その開かれ方が、AIの発達によってまるで無限大に拡張されてしまった。

言い換えれば、贈与の意味が「送る時点」ではなく「受け取る未来」にこそ宿っていることが、かつてないほど身体感覚を通して、リアルに感じられるようになったわけです。

つまりこれからは、その人間が未来に贈ったものを、AIが天使や悪魔のように作用して、その素材に好き勝手に魔法をかけてしまう。

そして、「本当の贈与」の価値とは、贈る側が価値を決定するのではなく、受け取る側が最終的な価値を決定する行為であるということが、ここからもハッキリと理解できるような気がするんですよね。

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たとえば悪魔的にネガティブなことを言えば、写真からネトストはいくらでも可能になる。

映り込みを反転させて、室内が全部見えてしまう、みたいなあの話なんかも一緒で。

人間が観たときには何も映っていないものがそこには映っているし、そこから生成されるものもあまりにリアルで、いよいよ何が真実かもわからなくなってくる。

そうやって受け取った主体に悪用されるとわかったら素直に未来にも贈れなくなってくる。

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だとすれば、昨日の話にもダイレクトにつながるけれど、やっぱりこれからの本質は、「受け取る側の主体性」の問題に帰結していくのではなかろうかと思うのです。

なぜなら、AIの進化発展で、その贈与自体もいくらでも変幻自在になり得るわけですから。

最初に贈られたものは、一体なんだったのかさえもわからない状態になりえる。

そして、受け取り方によって、それは毒にも薬にもなるわけです。それは最所さんがVoicyでお話してくれた、名著における読書の態度なんかとも全く一緒。

このような名著が過去から贈られてきても、要点だけを掴みたいというニーズのためだけにAIを用いるひともいれば、その本の内容を1だと捉えて10に膨らませるために、AIを用いる人もいる。

どちらも名著の原液を変容させて、自分に見合った素材に変更させているわけだけれども、その同じ贈与が、受け取る人間によって、まったく別のものに変わりうる可能性を秘めているわけですよね。

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で、これまでの世界は、ここがあくまで「実寸程度」のものとして、想定されていたわけです。

100贈ったら、100が届くと思われていた。それもある種のフィクションでしかないのだけれど「情報は刻んだら変わらない」ということが前提になっていたわけです、一応は。

しかし、AIが情報を自由自在に変換・拡張することで、もはや「贈られたままの状態」を想定すること自体が難しくなっています。

切って貼っての「編集」という作業自体が、もはや編集という枠を超えて、まったく新しいものをつくりだしてしまっている。

そうなるともはや、受け取り方の問題のほうに集約されていくと思うんです。「受け取る主体」にすべては委ねられてくる。

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たとえば、一番凝縮された過去からの贈り物といえば、松尾芭蕉の以下のような俳句。

夏草や兵どもが夢の跡
古池や蛙飛びこむ水の音


これをAIに読み込ませたときに、今後は、どんな壮大な物語と、映像作品をつくりだしてくれるかは、もはやわからない。もちろんそこから学び取れる情報や価値なんかも無限大。

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ここはあまりうまく言えないのですが、だから、贈る方ばかりに作為的になることが、あまり価値がないなと思ってしまうんですよね。

だって、これからはその通りに届かないのですから。

もちろん芭蕉の俳句ぐらい凝縮して、情景そのすべてを詰め込めるようなある種の呪文やプロンプトのような俳句をつくること、それこそが芸術になっていくのだろうけれど、それっていうのは歴史の中で、自然に決まっていく、定まっていくもののようにも思う。

AI時代には、もっと違うものが素材として活躍する場面も出てくるような気がします。今は完全に死蔵しているものの中に、魅力的な贈与品があるかもしれない。

それはもはや、僕らがAIやAGIの進化のスピードを一切想定できない以上、神のみぞ知ることです。

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で、だとすれば、その贈る行為よりも、受け取り方の態度のほうを揃えていく。

「こうやって受け取ってくれたら嬉しいな」という、そのスタンスや姿勢を受け継いでいくことが大事になってくる気がするんですよね。

逆に言うと、それこそが一番の贈与になるような気もするのです。このあたりは本当にうまくいえないのですが。

そこには間違いなく「循環」の意識もあって、次につながっていくペイ・フォワードが存在していることが理想的であるはずで。だからこそ、これまでも、これからも受け継がれてきたわけですからね。

やっぱり、受け取り方の文化や倫理、その思想を耕していくこと、それを大事にするコミュニティをつくることのほうが圧倒的に大事だと思えてきた、という話なんです。

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たとえばの話、僕がどれだけ誠心誠意込めて、10万字の本を書いて残そうとしても、それを生成AIに読み込まれて、AIに要約されてしまったら、元も子もないわけです。

でもコミュニティとして、受け取り方の文化、贈与の文化が残っていけば、その受け取り方、解凍のされ方には一定の期待が持てるわけですからね。

しかもそのとき、その時代にはどんな解凍の手段があるのかはわからない。でも、それを使う人間の心構えとか、意志とか倫理観とか、心的態度ならきっと受け継げる。

だとすれば、その解凍の仕方を楽しむコミュニティを生み出し、文化を耕し育んでいくしかない。

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それが「剥製」では決してダメで、生き物のように「生きた文化」として解凍の仕方が文化として残っている必要もある。

それはきっと、空海が眠る高野山や伊勢神宮なんかが、未だに毎日のように大小さまざまな祭事を行い続けていることなんかにも、非常によく似ている。

どんな時代になっても、”あちら側”から贈られてきたものの解凍するマナーや心構えがそこには受け継がれているわけだから。

本当の意味で何かを受け継ぐというのは、きっとそういうことであって、現在進行系の受け取る共同体、その受け取り方自体を受け継いでいくってことなんだと思います。

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なんだかここに気づくまでにかなりの時間がかかってしまいました。

でも、生成AIが出てきてくれたことによって、やっと気が付かせてもらったような気がしています。

今日のような文脈からも、僕はこれからも「受け取る側の主体性」をみなさんと共に育む、共に耕していくような文化を大切にするコミュニティや共同体をつくっていきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。