昨日の最所さんとのVoicyのトークの中で、「受け手としての態度が重要」という話がいまでも強く印象に残っています。
最所さんが掲げている「知性ある消費を作る」というキャッチコピーはまさにそうだし、Wasei Salonの「私たちの”はたらく”を問い続ける」というのも、似たような価値観を大切にしたいと思って掲げているつもりです。
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現代において、生産者側や、社会の構造、その悪事を暴いてみても仕方ない。
それは資本主義社会の中で「資本の他者性」に駆動させられていて、その悪事さえも、結局のところはやらざるを得ない悪事であって、彼らもある種の犠牲者でしかないわけですから。
だとすれば、受け手や消費者側の、その「受け取り方」を変えていく。
生産側の改革ではなく、「受け手側の態度変容」が世界を変える可能性がある、と僕は常々思いつづけています。
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昨日のVoicy内で繰り広げられた話題の中で言えば、経営者たちが洗脳に用いるための書籍を、名刺代わりに出版してしまうことなんかも、まさにそうです。
書き手も編集者も出版社も、書店も読者も誰も悪くない。
今の資本主義社会のもと、SNSがこれだけ普及してくるようになると出版を巡る状況もそうならざるを得ない構造や状況があるよね、という話だと思います。
社会という川はそうやって流れていて、世界はそちらの方向に流れてオチていく。
あとは、そんな世の中においても「自分たちはやらない、加担しない、関与しない」という倫理観の問題であって、そこから変えていくしかないのだろうなあと。
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つまり、資本主義の中で「悪者探し」をしてもキリがないし、むしろ「自分たち自身がどう受け取るか」という主体的な意識の持ち方のほうが重要なはずであって。
僕らが自分たちの意志によって変えていける部分がもし仮にあるとすれば、まさに「受け手側の主体性」だけ、なんですよね。
だとしたら、僕らがいま丁寧に耕せるのは、そんな素人同士が集まるコミュニティ。
そこに集うひとたちの想いや信念、勇気をくじかないための共同体をつくっていくしかないんだろうなあと。
ひとりで、大きな社会の構造に立ち向かうことは困難であっても、同じような苦悩や葛藤を抱えながらも、ちゃんと似たようなことを大事にしながら自立しているひとたちがいるんだということで、励まし合えることがあるよねと思います。
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で、これっていうのはそれぞれが「面白屋」になることだと思っていて。
この「面白屋」というのは、最近読み終えた河合隼雄さんの『こころとお話のゆくえ』という本の中に出てきた概念です。
河合隼雄さんは、ご自身のやられていることは「面白屋」だと書かれていました。
講演会などをすると、必ず「幅広い分野でご活躍の〜」と枕詞をつけられて、恐縮するけれど自分としては何に対しても受け手や旦那芸的な素人として「おもしろい、おもしろい」と言っているだけなんだ、と。
少し本書から引用してみたいと思います。
お菓子屋さん、八百屋さん、散髪屋さんなどと、昔は「屋」をつけて職業を示しながら、人を呼んでいた。もっとも、医者、芸者、学者などというのもあって、「者」のつくのはあやしいのが多いなどと言われたりした。この頃は、屋はあまり使われないようだが、私自身は自分の職業を考えるときに、「面白屋」というのがいいかなと思ったりしている。
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で、こういう話をすると、現代であれば「驚き屋」なんかが似たようなものとして、想像するひとも多いかと思います。
ちなみに驚き屋とは、AIの進化に対してひたすら驚く素振りを見せて、世間の耳目を集めようとする人々のことです。
もちろんAIだけではなく、時事ネタ全般なんかにも言えることだと思います。でもあのような驚き屋とは、完全に似て非なるもの。
その違いとは一体何か。
あれは、単純に人々のアテンションを奪うために、驚いて見せているということなわけですよね。でも、そうやってアテンションを奪うようになると、むしろ「オモロナイ病」にかかる。
この河合隼雄さんの本は25年以上前に出版された本なのですが、河合さんはその中で、以下のようなハリウッド映画の例を出しながら「オモロナイ病」について語ってくれています。
再び本書から少し引用しています。
現在のハリウッド映画は、観客の興味を集中して持続させる時間を九十秒と考えて製作されていると知りショックを受けた。一分半ごとに何か新しいことが起きるようにしないと、観客はそっぽを向く。
(中略)
これはほんとうに「面白い」のだろうか。これも面白いのかも知れないが、これだけが面白いと思って人生を生きる人は、相当に「オモロナイ病」にかかる可能性が高いと思う。結局は何を見ても聞いても「オモロナイ」と言わねばならぬことになる。
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さていかがでしょうか。言わずもがな、今は映画からスマホにメディアが移り変わり、もはや90秒さえも観てもらえない世の中です。
実際には、ほんの数秒というところでしょう。ソレでつまらなければ、次の動画にスワイプされてしまう。
受け手は、とにかく「おもしろい」という刺激を求めて、中毒性のあるものに流れていく。その結果として、世の中に、オモロナイ病が蔓延してしまっている。
これは味が濃い食べ物ばかりを食べすぎると、素材の味がわからなくなってしまうことにもよく似ている。
坂ノ途中さんが扱っているような、素材の味が豊かな野菜にふれても、その味がわからないという状態。美味しくないと感じてしまうみたいな話にとてもよく似ている。
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そうじゃなくて、大事なことは自分から味を探しに行ける、その能動性や、最所さんの言葉をお借りすると「知性」であって、そこに小林秀雄の言葉も付け足すと「直観」を大事にするということだと思うんですよね。
その味を探しに行くスタンスこそが大事なのであって、それっていうのはいつの時代も消費者や受け手側に委ねられていること。
僕は、それを共に体感し大事にするための空間をつくりたいなあと思い続けています。
それがなぜかと言えば、その逆を批判するひとたちもまた、今度は逆にむずかしいものにしすぎてしまっているからです。
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この点、河合隼雄さんも同じ文章の中で「専門家たちが逆にわかりにくくしてしまっている」と語っていました。
「おもしろさ」を見つける人が少ないのは、専門家と言われている人たちにも責任の一端があるのだ、と。
私が面白いと思っていることでも、専門家の手になると俄然難しくなるのである、と。
世に「先生」と呼ばれる人は、面白いことを面白くなくするために努力しているとさえ感じられると書かれていて、これは四半世紀が経過しても何も変わらないどころか、更に拍車がかかっているような気がしています。
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だとすれば、「面白屋」としての価値を理解している消費者や受け手、そんなある意味では素人たちが集まって、本当の意味でおもしろく受け取るための空間としての「別世」をつくるしかない。
そんな面白屋が集まるコミュニティを僕はつくりたい。それがずっと僕の願いでもあり、Wasei Salonに込めた希望でもある。
三浦さんのこのファッションに関するブログの連載なんかも、まさに「面白屋」そのものだなあと僕は思います。
決して専門家の立場から、理論武装しているわけではない。
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世の中では、ファストファッションのようなものが流行るから、専門家からするとファストファッションが「悪の集団」に見えてしまい、理論武装して戦わなければ、となるわけですからね。そうやって資本主義と、ファッションの専門家がバチバチに戦っている。
そこで、おいてけぼりになる一般消費者たち。本当に買い求める層が欲しい情報が提供されていないとわかっているから、そこに狙いを定めるインフルエンサーたちも足元では跋扈するわけです。
でも、きっとどれも違うと思うんですよね。
だったら、受け手同士でゼロから別世を作り出して、受け手側から変わっていく必要がある。
読むべき古典作品や、本当の意味でおもしろい現代作品が、世の中には存在しているわけですから。そして、それを面白がる方法を淡々とシェアし合ったほうがいい。
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現代であれば、それをオンラインコミュニティとして実現できる社会だし、そのときに必要な胆力や、視座を共に分かち合うことができる時代がまさに今だと思うのです。
そうやって、受け手同士が協力して、新しい価値観や世界観を築き「受け取り方」を変えていくことが現代のコミュニティの役割だと感じます。
まさに、共感ではなく「共鳴」を大事にしたいという話にも通じるところ。
これは、非常におこがましい話だけれども、もし河合隼雄さんが現代に生きていたら、きっとオンラインコミュニティを運営されていたと思うんですよね。
逆に言うと、もし河合隼雄さんがオンラインコミュニティやっていたら?という問いは、自分の中でいつもヒントになっています。
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最後に、この「面白屋」の話に関しても、非常に河合隼雄さんらしい注釈で締めくくられていて、それもぜひ合わせて最後にご紹介しておきたいなと思います。
こんなわけで、私はいろいろな分野で「面白屋」をやらしていただいている。「おかげでxxを読むようになった」とか「聴くようになった」とか言われると嬉しい。もっとも、面白いことには苦労もつきもので、苦しみの伴わない面白さは長続きしないことを最後につけ加えておく。
このお話は、本当にその通りだなあと思います。
Wasei Salonにおいては、ほんとうに少しずつではありますが、今日語ってきたような理想が現実になり始めていて、その萌芽が芽生え始めている。
もちろん、運営していく中で、苦労や苦しみもありつつも、着実に良い空間になってきているなあと思っています。引き続き、この「面白屋」的なスタンスを保ちながら、いい意味で素人の受け手が集える共同体をつくり上げていきたい。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。