昨夜、いま話題の書籍、三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の読書会がWasei Salon内で開催されました。

この読書会が本当におもしろかったです。サロンメンバーの方は、ぜひアーカイブをラジオ代わりに聴いてみて欲しい内容となっています。

https://wasei.salon/events/7476f2f4507a

ーーー

で、やっぱり読書会のメインの話題は、この本のタイトルの問いに対する三宅さんのアンサーである「半身」の話になりました。

では、その半身とは具体的にどのような態度を指すのか。

まずは、本書から少しだけ引用してみたいと思います。

本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。     
仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。
しかしこの社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。半身で「仕事の文脈」を持ち、もう半身は、「別の文脈」を取り入れる余裕ができるはずだ。そう、私が提案している「半身で働く社会」とは、働いていても本が読める社会なのである。


とはいえ、誰もがこの文章を読んで「半身で働く社会」が理想であっても、それが実現不可能なのでは…?と思うはず。

三宅さんご自身も、じゃあどうすれば半身で働く社会をつくりだせるのか、読み終えたひとりひとりに問われていることであって、そのための社会に対しての問題提起としての本なのだと出版記念のインタビュー動画の中で語られていました。

まずは僕らがいま置かれている状況を認識する、その立ち位置を理解するうえで本書は非常に優れた一冊だったと思います。

ーーー

そのうえで、僕も自身も、残念ながら全員が半身で生きる世の中というのはまったく現実的ではないなと思ってしまいます。

仕事や今後の生活に対する漠然とした不安も各人あるでしょうし、まったくもって「半身で働く」なんて現実的ではない。

「寝ぼけたいこと言ってんじゃねえ!働け!」となってしまう。実際にまわりの人々からそんなことは一言も言われていなくても、そのような他者のまなざしを内面化させてしまう。

そうなると、結局、以前も書いた「赤の女王仮説」のように「その場にとどまっているためには、全力で走らなければならない」という結論にたどり着いてしまうわけですよね。


ここで明確に壁にぶち当たってしまうわけです。「なんだ、結局は、本は読めないのか…」と。

それは圧倒的な現実だとは思うのですが、ただし、僕はここで諦めてしまうのはなんだかもったいないなあと思ってしまいます。

ーーー

この点、たしかに自分自身が今すぐに、半身を実行することは不可能に近いかもしれない。

それができるのは、すでに人生があがっているような一握りの人たちだけかもしれない。

でも、ここで一歩立ち止まって考えてみたいなあと思うんですよね。

自分自身が「半身」でいられることは不可能かもしれないけれど、僕らは目の前にいる他者が「半身」でいられる場所を確保することはできるのではないか、と。

本のタイトルに絡めて言い換えてみると「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」に対して具体的なソリューションが存在するわけではないけれど、

「どうすれば、目の前の相手の相手が、働きながらでも本を読むことができる時間を確保することができるのか」に関しては、今すぐに「私」が働きかけることはできるはず。

ーーー

つまり、自分自身が他者に対してであれば、寛容でいられるはず。

現実問題、少しぐらい身近なひとに半身になられたって(少しぐらい本を読んでくれていたって)大抵のひとは一向に構わないはずなんですよね。

その結果として、相手がより良い暮らしを送ることができるようになれば、少しでも気持ちが楽になって笑顔が増えてくれるのであれば、そちらのほうが満足度が高いと思う方は多いはず。

ただ、それを自分が実行しようとするから一気にむずかしくなってしまうわけです。

ーーー

この点、半身の思想は、もともとは社会学者・上野千鶴子さんの言葉であり、本書でもこの言葉が提案されていた『100分deフェミニズム』の話が引用されていました。

だとすると、いま現在本を読めないという人たちにこの話は刺さって当然だと思います。それは、マルクス主義みたいなものですからね。

基本的にフェミニズムなど左派の運動というのは「私たちの権利を許容せよ!!」というようなスタンス。

もちろん、言うまでもなく、その権利主張自体はとっても大事なことです。

ただ一方で、みんなが何とかしてやりくりしている中では、そのような権利主張というのは、やっぱりどうしてもノイジーマイノリティみたいに見えてしまう可能性を秘めている。

「私だってできることなら、そうしてあげたいけれども、それを全員に同時に提供することは現実問題不可能なんだよ」というふうに。

それでも「いいから早く許容せよ!!」と権利主張されてしまうと、それがどれだけ正しい権利主張であっても、実現させてあげられない、その心苦しさも相まって、大抵のひとはスッと心を閉ざしてしまう。

だから、フェミニズムを筆頭にラディカルな左派運動というのは、その正しさとは無関係に、いつも暗礁に乗り上げてしまうのだと思います。

ーーー

ただし、相手の権利を受け入れる、その行動の主体がこの「私」であれば、相手の居場所は私の一存で確保することができる。

そんなふうに目の前の他者の半身を許容する、寛容さ、ケアをすることは、今この瞬間から「私」が始められることなんです。

そうやって小さな現実であれば、誰でも作り出すことならできるはずで。

ーーー

この点、この本の中では、映画『花束みたいな恋をした』が何度も話題に上がっていました。

似たような文脈として、これを映画で喩えるとするならば、過去に何度かご紹介してきた『夜明けのすべて』のような世界観が、きっと理想的なんだろうなあと思います。

『花束みたいな恋をした』は結局、読書好きだったカップルが、お互いの実家の太さの違いによって、それぞれの生き方が分かれていってしまうことになる内容。

つまり、生まれ持った環境、その余裕の度合いによって、階級格差が生じるという残酷な社会の現実を浮き彫りにしただけの映画とも言えなくもない。

ーーー

でも、相手が半身でいられる空間を一時でもつくりだすことは、そのような持てる者と持たざる者の階級格差の問題ではないはずなんですよね。

むしろ、お互いの歩み寄る姿勢や寛容さのほうが大事。つまり、どんな状況に置かれていても、お互いにケアはし合えるはずなんです。

むしろ、似たような苦しみや葛藤を抱いたことがあればあるほど、相手の苦しみに対して素直に寄り添える。

この事実に対する重要性や、その実現可能性のようなものを描いてくれていたのが映画『夜明けのすべて』だったと思います。

だから僕はあの映画は、コミュニティ運営の教科書だと思うのです。


ーーー

社会的に置かれている状況として、今すぐに自分自身が半身になれない者同士であっても、目の前の相手が半身になれる場所をつくり出すことはできる。

そしてきっと、本当の生きる喜びはこちら側にあると僕は思います。

僕はそれをコミュニティ活動を通じて広げていきたい。

つまり、Wasei Salonも、まさに半身で関われる場所でありたいなと常々思っています。

何か義務感や責任感を持って携わってくれることは、本当に嬉しいことなんだけれども、そこにがんじがらめになることなく、半身でいいんだよ、と。

ーーー

もっと言うと、僕はそんな場所をちゃんとつくりだして、みなさんが半身で関われれる場所を全身全霊で確保していきたい。

それが、アジールやサードプレイスとしての機能を持たせるということでもあると思っているからです。

自分がそれをつくりだすんだという強い意志を持って、全身全霊で実行していきたい。

それは社会に対しては大きな意味を持つと信じているし、巡り巡って僕自身の仕事や暮らしの充実においても、還元されてくるというふうに強く実感しています。

ーーー

もちろん、他者の寛容さに対して、甘え過ぎてしまうひとがいるとすぐに破綻してしまうのが、この相手の半身を支援することの弱さであり、明確な弱点でもあります。

いつだって、資源(リソース)は有限ですからね。

だからこそ、「お互いさまの精神」が大事であって「健全な負債感」を持ち合って、持ちつ持たれつの環境を生み出せることが、持続可能性の一番のカギとなるはずです。

逆に言えば、Wasei Salonの中では、なぜそれが実現できるかといえば、相手から搾取しようとしないひとたちが、ちゃんと集まってくれているからだと思います。

それが本当にありがたいこと。

ーーー

実際、この話を読書会の中でもしてみたのですが、しっかりと共感してもらえて、それが心の底から嬉しかったです。

誰ひとりとして「いや私が半身になりたいのに、他者に半身になる機会なんか提供している場合じゃないんだよ!」なんて素振りを見せるひとはいなかった。

むしろ、みなさんが本当に真剣に「どうすれば私自身が、他者に対して半身で関われる空間を確保してあげられるのか」を考えてくれていたのは、本当に救いだったなあと。

ーーー

きっと、そうやって相手の半身であれる空間を相手のために確保しながら、共に作り上げていくこと以外に、本当の意味で全員が半身でいられる社会というのは訪れないんだろうなあと思っています。

みんながよく知る、相田みつをの有名な言葉を借りれば「うばい合えば足らぬ    わけ合えばあまる」というやつですよね。

そんな「わけ合えばあまる」という空間を構築できるのが、会社でも自治体でもなく、僕らのような有志が集まるオンラインコミュニティなんじゃないかと思う。

最初からそれを理解してくれているひとたち、そのような姿勢や態度が大事だと思ってくれている人たちが集まってくれているコミュニティを作り出すことの意味は、ここにある。

ーーー

このような価値観で駆動する「小さな現実」を作り出すことが、いま何よりも大事なことだろうなあと思っています。

みなさんのおかげで、それが少しずつでも着実に、現実化していることが本当にありがたいことだなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。