アナキズムと聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか。
「無政府主義者のヤバいひとたちが信奉している考え方であり、できればあまりお近づきにはなりたくないタイプのひとたちの思想」と考えるひとは多いのではないでしょうか。
また、そこにはリバタリアンも含まれてくるので、イーロン・マスクのような格差や貧困問題も何のそので、新自由主義に一直線のひとたちみたいな存在をイメージするひともいるかもしれません。
もちろん、僕もそのひとりでした。でも、実際はそうじゃないのかもしれないなあと。
最近まで、僕はアナキズムを完全に誤解していたなあと思ったのです。今日のブログではそんな話を書いてみようかなと。
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この点、アナキズムの反対に位置するのは、きっと「法令遵守」になるのだと思います。
じゃあ、なぜひとは、法令遵守をすることが正しい行動だと思ってしまうのでしょうか。
そこには様々な理由があるとは思いますが、それは最終的には「自分の頭で考える必要がなくなるから」ですよね。
つまり、いつも書いているとおり「自由からの逃走」の話とつながります。
参照:自らの孤独感と無力感から目を背けたくて、人は権威に服従してしまう。
この点、僕が好きな文化人類学者・小川さやかさんがご出演されていたの動画の中で、アナキズムについて、非常におもしろいお話が語られていました。
動画内と近いお話が、テキストでもまとまっているweb記事を見つけたので、ちょっと長いのですが、非常に重要なお話だと感じたので、少し引用してみたいと思います。
硬直化せずに、日々自分の頭で考える。
最後は人類学者であり、政治経済学者でもある、ジェームズ・スコットの『実践 日々のアナキズム』で締めくくりたい。彼の言うアナキズムとは、決まりきったこととして、ふだん考えることを放棄している領域の中に、じつは重要なことがたくさんあるのではないかというものだ。そして、日々自分の頭で判断するための訓練として「アナキズム柔軟体操」なるものを提唱している。
その例として、信号無視の話が出てくる。そこはドイツの田舎町の通りで、夜は車通りが途絶え、はるか遠くまで見通せる。だが、人々は律儀に信号が変わるのを待っている。そこで彼は、アナキズムの実践として信号を無視して渡る。だが、彼はどんなときも信号無視をしていいとは言っていない。たとえば自己判断ができない小さな子どもがいたら、真似すると危ないのでルールを守る。つまり、自分たちの生活にとって不条理だと思うルールに対し、どうすれば帳尻を合わせながら、自らの手で新しく自生的な秩序を作れるかを考えることが大事だと訴えているのだ。
コロナによって今、各人がいかに行動するかが問われている。そうした中、私たちに求められているのは、思考を硬直化させず、しなやかに生きる術を身につけることではないだろうか
引用元:「思考をほぐし、しなやかに生きる」。文化人類学者・小川さやかさんが選ぶ、今読みたい本。 | アートとカルチャー | クロワッサン オンライン
いかがでしょうか。
このお話を読むと、状況に応じて、その法律やルールの本来的な趣旨・目的に立ち返って、自分自身の頭で考えられるひとが、本当の意味でアナキストなのだと思うのです。
「何でもかんでも、旧来のしがらみをぶっ壊せ!」っていうことでは決してない。
さらには、その自分自身の決断に、自分自身で責任を負う覚悟ができているかってことも、非常に重要な点になるのだと思います。
至るところで引用されている、みなさんお馴染みの『池袋ウエストゲートパーク』の中に出てくるセリフ「悪いことすんなって言ってんじゃないの、ダサいことすんなって言ってんの」にも通じる話だと思います。
参照:ブログやSNSでネガティブなことも書いたっていい。大切なのは「自分は何をもって覚えられたいのか」ということ。
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さて、この文脈における究極的な問いが、僕は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いだと思っています。
本当の意味で、自分の納得感のある言葉で、人を殺してはいけない理由を説明できるひとは一体どれだけいるでしょうか。
実はかなりむずかしい問いだと感じています。
だからこそ、第2次世界対戦以降の日本及び世界中の国々は「生命を大切にしましょう」という言葉にある種、逃げ続けてきた。
「生命を大切にしましょう」という提案に対して、わざわざ異論を唱えることはなかなかにむずかしいことですからね。
この変遷の話は『救いとは何か (筑摩選書) 』という本の中で、詳しく書かれてあったので、気になる方はぜひ合わせて読んでみてください。
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僕らはずっと、この問いから目を背け続けてきたわけです。
「法律でそう決まっているから。もしその法律を破ってしまったら、刑務所から一生出られなくなって自分の人生の自由が奪われるから」という曖昧な理由を隠れ蓑にしながら、です。
だからこそ「人を殺すことがいけないのなら、なぜ動物を殺してはいいのか?」と迫ってくる過激派のヴィーガンのひとたちの主張も容認せざるを得なくなるし、テロを通じて人は殺さないけれど一点物の名画に対してトマト缶を投げつけることで自らの主義主張をするひとたちも、同時に現れてくるのを許してしまうのでしょう。
これらもすべて「なぜ人を殺しちゃいけないのか?」をちゃんとひとりひとりで考えることしてこなかった代償でもあると僕は思っています。
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じゃあ、僕が考えるこの問いに対する現状の暫定解とは何か。
様々な先人たちの意見を読んできた中で、自分の人生のなかのあらゆる実体験と照らし合わせてみても、一番納得感があったのは、哲学者 ハンナ・アーレントの以下のような考え方です。
『今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢 』という本から引用してみたいと思います。
われわれは心の中に他者を想定することによって、彼の同意が得られるかどうかをたずねながら自分の行動を判定している。いわば自分の中のもう一人の自分、自己の中にいる他者との対話こそが、行動の善し悪しを判断する基準であり、悪への誘惑を振り切って踏みとどまる最後の拠り所もここにある。自分の中での「内なる他者」と行われる対話こそ、人が「良心の声」と呼んでいるものにほかならない。
アレントはさらにこう述べている。悪事を為せば、人はその悪事を為した自分と一生付き合っていかなければならない。だから自分の中のもう一人の自分は言う。「どうか殺人者にはならないで欲しい、自分は人殺しと共に生きていきたくはない」と。人が悪事を思いとどまるのは、誰か他人が見ているからでも、超越的な神の処罰が怖いからでもない。誰も見ていなくても自分自身が見ているからだ、と。
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自分の中での「内なる他者」と行われる対話こそ、人が「良心の声」と呼んでいるものにほかならない。まさにこのときに自分の中における善悪の基準が定まるのだろうなあと。
「どうか殺人者にはならないで欲しい、自分は人殺しと共に生きていきたくはない」と。
じゃあ、一体そのような胆力はどのように養えばいいのでしょうか。
ここで、一気にものすごく卑近な例になってしまい申し訳ないのですが、最近、『スラムダンク』の映画を初日にすぐ観に行って、自分の感想を書くことに、結構勇気がいることなんだなと実感しました。
特に『スラムダンク』は、その前評判はあまりいいものではありませんでしたからね。
もしかしたら、世間があまり良いと思わないかもしれない作品を、自分だけ良いと思う、その様子をみて後ろ指を刺されてしまうっていうことは、現代人にとってはなかなかに恐怖極まりないことになってきているように思います。
でも、僕はあの映画を観た瞬間に、本当に素晴らしい映画だと心の底から感じました。
もし仮に、世界の人間全員が「つまらない」と評価しようが、自分には関係ない。
僕は僕の「内なる他者」との対話、それは10代のころから井上雄彦作品に慣れ親しんできて、自分自身がその作品に強く影響を受けながら生きてきて、そんな自分の中にいるもうひとりの自分との対話の中で、これは評価に値すると素直に思ったから、誰の意見に左右されることもなく、これは良い映画であると他者に向けて堂々と発言できました。
これも一つのアナキズムを実践するための訓練だよなあと感じたんですよね。
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本当のアナキストの方々からは「そんなのはアナキズムじゃない」と言われてしまうかもしれませんが「自分の頭で考える、そして世間のルールや空気に流されず、自らの善悪の基準に従う」という意味では、とても大事なことのように思います。
そんなことを考える今日このごろ。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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