現代は、正しい情報は溢れかえっているような世の中です。

ただ、その正しい情報に従って、正しいことをしたくなるだけの意欲やインセンティブのほうが圧倒的に足りていない。

一方で、その正しさのほうばかりをドヤ顔で語り続けてくるようなひとたちに、うんざりさせられるような世の中でもあります。

そして、そのような人達が語りがちな「自ら主体的に選びとろう!」というメッセージや、彼らが理想だと語るような「自主性や主体性を重視するような教育の嘘」みたいなものも存在しているなあと僕は思っています。

今日はそんなお話を、このブログの中でも少しだけ。

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これは養老孟司さんもよく語っていることですが、たとえば欧米では「紅茶にするか、コーヒーを飲むか」と必ず客人に対して聞いてくる。

そして、コーヒーを飲むと答えたら、今度はミルクは入れるかどうかを再び聞いてくる。そして、しまいには器の種類までどれにするか、と聞かれるわけですよね。

何でもかんでも本人に主体的に選び取ってもらおうとするわけです。

日本のスターバックスのシステムなんかにも非常に近い。

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一方で、日本の場合は聞かれなくても、席に付けば勝手にお茶が出てくる。そして、客人側もその出されたお茶を黙って飲む。

そこに主体性なんかがあっても邪魔なだけだってことがわかっているから、です。

もし、主体的な選択ばかりしてる人間が集まったら、日本という狭い国土の中では、人々はお互いに干渉し合ってとても生きづらい。それは結局、周囲に迷惑をかけるだけです。

だから日本では「とりあえず、乾杯はビールで」なわけですよね。

でも、どうしても主体的に振舞わせようというひとたちがいて、彼らは「なぜ好きでもないビールを飲まなければいけないんだ」と声高に叫ぶわけです。とはいえ、そのような人間が1億2000万人いたら、この国は回っていかないとも思いますよね。

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でも現代は、とにかく主体的であることに価値が置かれてしまっているから、子どもにも主体性をもたせようとするわけです。

そして、子どもに主体性を持たせたかったら、何でもかんでも本人に直接聞いて、本人にすべてを選ばせるように仕向ければいい。

決して親や教師の側からは何も与えないこと。本人が欲するまで、何が欲しいのか、どうしてそれが欲しいのか、逐一その理由を本人に直接質問し続けながら、本人に主体的に選ばせて、あなたは主体性がある人間なんだというメタ・メッセージを常に送り続ければいい。

現代においては、それが理想の教育のように語られていますが、でも、その子が大人になったときに、日本という社会の中で生きやすい人間になるかどうかは、まったく別の話だと思います。

逆に言えば、今の若い子たちが、社会の中で漠然と生きづらさを抱えて生きているのは、このような教育を受けている子どもたちが、社会の中に少しずつ増えてきていることがその理由だと僕は思います。

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そんなふうに、主体性を養うための教育を散々受けてきて、親や先生がいつも自分の主体性を重視してくれて、何でもかんでも無条件でサポートしてくれたのに、社会に出た途端に一気にハシゴを外されて「おまえの主体性なんて、どうだって良いんだよ」というポジションに追いやられてしまうわけだから。

それに対して「我慢ならない!」という若い世代が多いのは至極当然の話で、彼らが会社を3年も立たないうちにやめてしまうのは、あたりまえだと思います。

だから常に「主体性を持て!」と言われて育った子どもほど、日本という国では生きづらい状況になっているのだと思います。

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じゃあ、なんでもかんでも出されたものや、世の中の主流派の意見に流されれば良いのかと言えば、決してそうでもないわけですよね。

それだと今度は、ただひたすらに世間の「空気」に流される人間になってしまう。主体性のかけらもない人間が誕生してしまうだけだから。

そのような人間だって、現代社会にはごまんと存在しています。

具体的には常に周囲の「空気」に従って遊び、スポーツをし、勉強をして、リクルートスーツを来て、SDGsのバッジをつけて、長年勤めた会社の関連団体に天下りするような人間です。

それはそれで厄介です。なぜなら彼らは自ら「責任」を取ろうとは絶対にしないから。

当然ですよね、だってそれは自分が主体的に選び取ったわけじゃないと本人は思っているのだから。私が責任を取る筋合いや「責任を取る」責任があるなんて、思ってもいないわけです。

たとえば、自分が選んだわけでもないのに勝手に目の前にお茶が出されて、その出されたお茶の責任を取れ!と言われたところで、普通のひとは拒否すると思います。

それと全く一緒の話です。

だから日本人のサラリーマンや公務員の多くは、なんでも自分ではなく経営層やお上の責任だと思っていて、どれだけ自分が現場で手を動かしていても、その責任なんて自分にあるとさえ考えないわけです。

過去に何度も語ってきた、ナチス・アイヒマンの無思想性の話と全く一緒です。

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じゃあ、一体どうすれば良いのか。

主体性というのは、メタメッセージによって親や教師から刷り込まれるものではなくて、内発的に発見するものなのだと、僕は思います。

ここが今日一番強く強調したいポイントです。

それゆえに、僕はもっともっと内側から立ちあわらてくる「知的高揚感」のようなものをここにいるみなさんにも味わって欲しいと切に願っている。

「正しいことをやれ!さもないと負け組になるぞ!」とか「何でもかんでも主体的に選び取れ!」とか、そういういわゆる現代のインフルエンサー的な脅しや脅迫行為によって駆り立るのではなくて、もっともっと自らの内側から自然と立ちあらわれてくるようなものを大事にして欲しい。

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この点、最近発売された、思想家・内田樹さんの新刊『街場の米中論』という本の「まえがき」の部分で、内田さんが運営されている凱風館という道場で行っているゼミの話が書かれてありました。

このゼミでは毎回一人のゼミ生が演題を選んで発表をするそうです。そして、それについて内田さんが30 分ほどのコメントを加えて、それからディスカッションを開始するそう。

そして、内田さんは事前に発表者からどんな内容の発表をするのか聞かず、当日発表を聴いてから、その場で思いついたことをお話するそう。

だから内田さんのコメントというのは、発表の出来不出来についてのものではなく、「話を聴いているうちにふと思いついたこと」になるようです。

「そういえば、いまの話を聴いて思い出したことがあるんだけれど〜」という話をするだけなのだと。

ここで本書から、以下で少しだけ引用してみたいと思います。

経験的には、これが一番ゼミの進め方としては生産的であるような気がします。ディスカッションに参加するゼミ生たちもみんな僕のこのやり方を踏襲し、次から次へと「いまの話を聴いてふと思い出したこと」を語ります。
(中略)
僕がゼミでめざしているのは、あるテーマについて有用な知識を身につけるということよりもむしろ、ゼミ生たちに知的高揚を経験してもらうということです。     ですから、僕はゼミ発表について「査定」とか「評価」ということをしません。
(中略)
たしかに人の発表を聴いて、新たな知識や情報を仕入れることもとても有意義なことですけれど、それ以上に、「そういえば」がきっかけになって、自分の記憶のアーカイブを点検するという作業が始まる方が大切だと思う。


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これは本当に大切な話だと思います。

Wasei Salonにおいて何かしらの対話会やっているときにも、まさにこのように感じる瞬間がある。

今、目の前のひとの知的高揚感が、明らかにグンと高まったなという感じが伝わってくるような場面です。それは、誰から強制されたわけでもないわけで。

ただただ、周囲のひとたちは、同じ場を共有し、相手の話にゆっくりと耳を傾けて聞いていただけなんです。

でも、そうすれば、そのひとは自発的に、また主体的に話す内容を自ら自然と選べるようになる。

そうすると、自分と他者との距離感や隔たりのようなものも、自分のペースで認識できるようになると思うんですよね。

つまり、一定の主体性を持ちつつも、一方で他者とあからさまに衝突するわけでもなく、思いやったり、慮ったりすることもできるようになるわけですよね。

自分で、自らの持ち場を、それぞれに発見するような感覚です。

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「自分の意見を持ちなさい」というのは外資系企業を中心に、ビジネス書をでも広く語られることだと思います。そして、それが社会人として当然だ、という雰囲気も現代にはある。

でもそんな人達が集っても、営利目的の会社はつくれても、共同体やコミュニティはつくれない。それは、今の欧米社会が完全に行き着くところまで行き着いて、この先がまったく見つかっていないのを見れば一目瞭然だと思います。

そもそも、そんな個人なんて概念は、本来は存在しないのだから。あくまで幻想です。もちろん分人だって存在しない。

だからこそ、僕はこのWasei Salonのような場においても、個を重視するよりも、場としてのそんな知的高揚感が高まる体験、そんな稀有な空間自体をつくりだしたいと思っている。

それこそがきっと、「私」ではない「私自身」を発見することにつながると思っているからです。

いつもこのブログを読んでくださっている、みなさんにとって何かしらの参考となったら幸いです。