今日は昨日の続きです。

昨日の記事の内容を読んでも、「それでも私には、人生でやりたいことなんてない」という人もいるかと思います。

この点、心理学者のヴィクトール・フランクルは、「私は何のために生きているのか?」を問い続けると、人は絶望してしまうと言います。

そうではなく「あなたが生きることが、あなたに対して期待していることは何か」という問いを用いて、考えてみることを推奨している。

つまり、「自分の人生が何のためにあるのか」ではなく、「自分が生かされているのは、私にしかできないことがあるのではないか」と問いを立てたほうがいいのだ、と。

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ただし、このように捉えると、多くの人は往々にして自分以外の「他者」や「世間」からの期待に応えることが、「私に期待されていること」だと思ってしまいがち。

しかし、上記の問いは「あなたが生きることが〜」という部分が主語になっていることがポイントで、もっともっと別の存在による期待なのだと思います。

間違いなく自分ではあるけれど、自我ではないもの。

もちろん、周囲に存在してくれている他者や世間が、その存在のことに気づかせてくれることもあるだろうと思います。

でもそれは、自分が落としたハンカチを見つけてもらうような感覚に近い。あくまで「落ちてますよ」と声がけしてもらうような感覚です。

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人は、そのハンカチの本来の持ち主を擬人化して、神や仏、魂や無意識なんかと呼ぶのかもしれません。ただし、正直この呼び方は何でもいいと思います。自分が一番に腑に落ちやすいものを選べばいい。この呼び方で争うこと自体は不毛です。

しかし、世界中の宗教や哲学、思想の中で似たようなことは何度も何度も繰り返し語られていて、間違いなくソレが存在することは確かです。

さもなければ、はじめての空間にも関わらず、「この景色を見るためにここに来た」と思えるような、あの独特な「既視感」は絶対にあり得ない。

その存在が欲するところを実現するために、自らが淡々と行動することが、とても大事なことなのだろうなあと。まるで忠実な「しもべ」となるように。

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広告やマーケティングによって捏造された社会的な欲望というのは、ひとつひとつ丁寧に解釈して紐解いていくと、すべてが幻想だったと自覚できるようになります。

それよりも、もっともっと大事な「内なる欲望」に対してしっかりと目を向けていきたい。

それを理解するための方法として、昨日書いたような「無謀な夢」という直感を因数分解してみる作業は、ひとつのアプローチとしてとても有効なことだと思います。

非常に抽象的な話となってしまい大変申し訳ないのですが、今日の内容を通じて、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの気づきや発見があれば幸いです。

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