一体何のことかと思うかもしれない。
アイムオールウェイズマイケルジャクソン。
そう私のことだ。

唐突な自己開示だけれど、私はいま妊娠7ヶ月。
昨日1年ぶりくらいに前の職場の友人と会ってランチしてるときに「体重8kgも増えちゃってさ、しかもお腹周りに増えるから重心が崩れて、ただでさえ相当運動神経悪いのに、本当にしょっちゅうこけそうになる」といった話をしてたら、その友達が急に「あ、つまり、オールウェイズマイケルジャクソンってこと?」
ん??え!!?

続けて彼が「だって常に重心前のめりってことでしょ」と言い出したので、なんだかめちゃくちゃ笑ってしまった。

直接話す機会があった方には、話してたりしていたし、色々話すみなさんに自己開示したい気持ちもあったのだけど、「ブログに妊娠のことを書く」となるとなんだか神妙なトーンになってしまう感じがして、なんだかタイミングを逸してしまっていた。
今日は友人の明るい軽口をかりて、これを書いてみてる。
アイムオールウェイズマイケルジャクソン。

いまは8kgも増えたけれど、1,2ヶ月前の段階でも元々の体重より5kgくらい増えていた。
「毎日米袋持ってるのと一緒だ〜重いよ〜」
と夫にぼやいてたら、夫がお腹に向かってなにか話しかけてる。
「こめたろう、元気〜?」

え、こめたろう!?
「だって米袋なんでしょ、自分で言ったじゃん!ね、こめたろう!」
この時点でお腹にいる彼の仮称はこめたろうになってしまった。いまやこめちゃんというあだ名までついている。

いままで自分が母親になる、という想定をそこまで具体的にはしてこなかった。
大人になってから多くの人が、「結婚する」ということと「子供を持つ」ということを割と距離近く捉えていることに気づいて心底びっくりした。

そもそも生物学的な制約と、社会の状況がマッチしてない中、女性はすごく難しいゲームに挑んでいるよなぁという感覚もあって、ここ数年はうっすら考えても、うーむと思考が止まってしまうこともたびたびあった。

そもそもこの世界に子供を増やすのは果たしていいことなのか。
私自身は反出生主義的な考えを持ったことはないと思うけど、色んなことを考えて時にもやもやする感覚がなかったといえばうそになる。

そんな中少しずつ時間をかけて、いいかも、まぁなんとかなるのかもと思えるようになったのだけど、明確にひとつの転機となったといえるのは、2022年2月にさばちが我が家にやってきたこと。

いままで出会うはずもなかった生き物が唐突に自分たちの生活に入ってくる。
それは本当に私にとって新鮮な体験だった。

はじめてきてから1ヶ月ほどは、毎日昼ごろきて数時間滞在するというスタイルだったので、うちの子という感じでもなく、自分自身の生活と、さばちの気儘な生活が少しの間交錯する。
それは今まで経験したことのない感覚だった。

もうひとつ大きな発見だったのは、さばちという存在によって夫のいままで見えてなかった側面が引き出されたように感じたこと。

私たち夫婦は5-6年2人暮らしをしていたので、本当にかざらない生活の中に新たな存在があらわれたことは私にとっても夫にとっても、そしてふたりにとって、大きな出来事だった。

そしてはじめてあって1ヶ月と少し経った頃、通い猫だったさばちを飼う決断をした。
大雨の日にずぶ濡れで現れたさばちを匿ったことがきっかけで飼うことになったのだけど、それから数ヶ月はさばちの気儘な生活を奪ってしまったのではないかとかなり気を揉んで、夫と色々話した。

結論さばちの自由を奪っている側面は間違いなくあるし、猫を飼うということは人間のわがままなのだと思う。でも私たちはさばちと一緒に暮らすことにした。
だからこそ、さばちがしあわせであれるように心を砕きたい。そんな風に思うようになった。

家に人間の大人と話すようには言葉が通じない生き物がいること。人間の大人と同じようには通じないけど、だからこそ、別の形で通い合ってる感覚があること。

生き物を飼う、育てるということは一方的な行為ではあり得ず、自分の感覚も大きく変わる。
思いがけず猫と出会い、うっかり猫を飼ってしまい、いまや2匹も家にいる。
最初は馬が合うか心配だった2匹もいまや、しょっちゅう2匹くっついて過ごしている。

そんな数年の実感としていのちを預かるということはとても重いことだけれど、同時に偶然の産物という側面もあるのだろうなぁと感じる。

うまく言えないのだけど、いのちに向き合うときの重さとある種の軽やかさのようなものを、同時に持てるといいのかなと思ったりする。

予定だとオールウェイズマイケルジャクソン状態は、あと数ヶ月。
そこから自分を含めた今すでに家にいる生きものたちがどんな風に過ごすのか全く想像がつかないけど、いまはこの不思議なひとときを味わいたいと思う。
ジャクソンは、こめちゃん待ってるよ!