先日シラスで配信されていた『「嫌われ者」とは誰か?──揺らぐ「政治的正しさ」はどこへ行く』という東浩紀さんと石戸諭さんの対談イベントを観ました。

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20241118

質疑応答の場面で「政治の世界や、世の中に「嫌われ者(トリックスター)」が続々と現れてくる中で、我々はどのように立ち振る舞えば良いのか」という質問に対してのおふたりの回答がとても示唆深い内容でした。

ざっくりと書いてみると「適切に距離を置くこと、判断を保留すること、政治にのめり込みすぎないこと」が語られていて、これらは本当にそのとおりだなと。

詳しくはぜひ直接本編を購入し、ご覧になってみて欲しいのですが、まさに先日書いた「反エリート時代の処方箋」のブログの内容とも深くつながる話です。


今日はこのお話を受けて、改めて自分が考えてみたことを少しだけこのブログに書いてみたいなあと思います。

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イベントの中では、ベネディクト・アンダーソンの名著『想像の共同体』の話題の流れから、

「なぜ僕らが沖縄のニュースには深く注目をして、台湾のニュースにはそれほど注目をしないのか」という話が語られてありました。

東京からの距離はほとんど変わらないにも関わらず、です。

それは、国家という共同幻想、人為的な境界線がそこ引かれているからだと。

これは逆に言えば、そのような国内のニュースというのは、自分ごとだと思ってらうために、つくられた人工物に過ぎないわけですよね。

それはもともとは黒船外圧から身を守るためにつくられた「擬似的な共同体」に過ぎなかったはずなのです。

外圧から身を守るためには、お互いに結束して、より大きな国家をつくり、近代化しなければいけなくなったから、そのような想像の共同体をつくり出す必要があった。

昔の大半の日本の本土に暮らしていた人々にとっては、沖縄の話も台湾の話も同列であって、自分とはまったく関係ないことだと思われていたわけですよね。

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このように、本来は自分に関係があることは、限りなく少ない。世の中の9割の出来事は自分とは関係がないこと。

でもそこに新聞、ラジオ、テレビ、そしてインターネットが登場し、「グローバル人材」という定義までが生まれることで、世界のありとあらゆる事件が、自分ごとだと思わせられるようになった。

誤解を恐れずに言えば、ウクライナの戦争もガザの戦争も、極東の島国の人間には関係ないといえば関係ない。

それで経済的に得をする人々がいたりもするから、ありとあらゆる手段を使って、僕らは何かの決断や意思表明、政治運動などに加担するように仕向けられているわけですよね。

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さて、とはいえ、ここまでの話は誰もが一度はどこかで聞いたことがあるような話であって、本題はここからになります。

じゃあ、なぜこのような構造や仕組みがわかっていても、僕らは無視することができないのか。

そこには、大きく分けて3つの理由があると思っています。

ひとつは、「なぜあなたは助けないのか」という「良心」への問いかけ。これはイベントの中でも語られていた内容です。

世界で苦しんでいるひとが存在するという状況をスマートフォン上に表示される動画などでさんざん見せつけられて、この人たちを見捨てるのか、と誰かに攻められた気分になる。道徳的な規範を内面化しているわけですよね。

それゆえに、感化されやすいひとたちは、優しさゆえに、ドンドンと世界の反戦運動の活動に対して積極的に加担していくのだと思います。

そうやって、自分のなかの良心に対して応答をしてしまう。当然。それは悪いことではなく、それによって良いこともたくさん起こるわけですから、一概に否定しているわけではないことは、くれぐれも誤解しないでください。

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で、2つ目は、わかりやすく「経済的なチャンス」ですよね。

何事においても成果やパフォーマンスをもとめられる時代であるがゆえに、それを見過ごしたら、自らのパフォーマンスが落ちるかもしれないと感じてしまう。

だから人間は、世界の果てに行ってまで鉱山開発とかをしているわけでしょう。自分自身が直接スコップをもって開発せずとも、開発しているような企業の株式に投資をする。

そうやって、地球の裏側のニュースをくまなく追ってしまう。自分の資産を増やしてくれるかもしれないと思うから。

もちろん、それが世界の経済的発展にとっても良いことだってあるわけだから、こちらも良い悪いの話ではない。

でも、一方で、ウォーレン・バフェットの「能力の輪」みたいな考え方も、同時に理解したいとも思います。

バフェットは、自身が理解できている分野に投資することでリスクを最小限に抑え、将来性を評価することを重視しているそう。

自分にはわからないジャンルや、目が届かない範囲まで投資の幅を広げなかったから、あれだけの大富豪になれたのも事実です。

チャンスという意味では、むしろその範囲を狭めて、自分にとって打てないボール球はいくらでも見送ったほうが良いはずなんですよね、本当は。


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で、ここまでの2つ、良心の呵責と投資的なチャンス、その両方の落とし穴がわかっていてもなお、それでも世界に対して僕らが目を向けてしまうのはなぜか。

最後の3つ目は、過去に何度も語ってきたように「退屈と寂寞」なのだと思います。

喜びや享楽を求める人生ではなく、退屈や寂寞と向き合うことが、本当の幸福においては重要な要素なのに、それができないのが人間の性です。

だから、ショーペンハウアーは『幸福について』の中で、退屈と寂寞との向き合い方の重要性を徹底して書いている。


で、これはものすごく機運的な、そして雰囲気な話ではあるのですが、昨今はテーマや争点は何でもいいから、みんな「団結」したいんだと思います。そして団結した先にある、うねりみたいなものに興奮をしている。

なぜなら、退屈と寂寞から逃れたいから。

そして、そのうねりの「旗の色」とか「趣旨目的」は二の次で、あまり重要視はしていない。それよりもうねり、それ自体に価値を感じている。

世界が変わっていくこと、それ自体に興奮をしている状態。

そういう意味では、人間もやっぱり生き物なんだと思う。享楽的な快感には逆らえない。

でも本当に大事なことはやっぱり、自分にとって関係のあることだけにしっかりとフォーカスする勇気なんだろうなと思います。

それがたとえ退屈と寂寞にまみれていようとも、です。

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で、これはイベントの中でも語られていましたが、このような議論をすると必ず話題になる批判は「目の前に苦しんでいるひとたちがいるのに、その人達を見捨てるのか!」という批判です。

でも、目の前で困っている人に対しては、素直に手を差し伸べればいい。

「相手の関心事に対して、関心を寄せる」というような行いは、日々の実生活のなかで、淡々と実践すればいいし、それはできるわけですよね。

たとえば、自分は世界にまで広く関心事を広げないことにしたとしても、駅でたまたま出会った訪日外国人の方が何かに困っていて、自分の中の惻隠の情が発動したら、素直に助けてあげればいい。

それとこれとは決して矛盾しないし、むしろしっかりと両立できることなはずなんです。

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逆に言えば、目の前の相手に対しての配慮、そのコミュニケーションが足りないから、ドンドン外側へと向かってしまうということでもあるのだと思います。

目の前で、自分の知人や友人、家族などが実際に困っていても、そちらには見て見ぬふりをしてスマホに食らいついて「顔のない他者」の刺激に振り回されて、世界の悲劇にばかり目を向けていても仕方がないわけですよね。

そんなことをしていれば、自分の無力感に苛まれてしまうことは当然ですし、その浮足立っている状態、退屈と寂寞に耐えられなくて、より強い刺激を求めていることに対して、足元を見られて誰かにとって都合のいい関心事に引き寄せられてしまうのも当然のことだと思います。

今は、その関心それ自体(アテンション)が集まることがお金になる時代でもあるわけですから。注意を引きつけて「存在の搾取」も、当たりまえにになってきているような時代です。


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最後に、これもイベントの中で語られていましたが、世の中のほとんどのことは自分には関係ないからこそ、自分の考えや決断も留保していいし、保留したほうがいい。

「嫌われ者が跋扈する時代に対して、いちばん大事なスタンスというのは判断を保留すること、そして熱狂から距離を置くことだ」と。

そして、過剰にネットで調べようとしない。そうやって調べれば調べるほど、アルゴリズムの餌食になるだけだけだから。アリ地獄状態になってしまう。

政治に関心を持ちすぎない。真実を探求しようとしすぎない。これからの時代のメディアリテラシーは、適切に距離を置いて、自分の意見を保留をする勇気を持つことだ、というのは本当にそのとおりだと思います。

「あなたたち一人ひとりが、AかBかに、はっきりと決断しないと、目の前の人が死にますよ」そういう悪魔のささやきには耳を貸さない。

だったら、その分の労力を、今実際に自分の目の前で本当に困っている「顔のある他者」、自分と直接の関係性のある他者に対して向けて、ひとりひとりが助けていけば良い。

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何が正しい情報なのかもわからない世の中で、浮足立たないことのほうが、よっぽど世界全体に対しては、良い影響があると僕は思う。

「自分の意見を持とう。考え抜け、答え抜け。立場を明確にしよう」と肯定的に語られることは多いけれど、本当にそれは誤りだと思います。

それを言い切ってしまった瞬間に、価値観が異なる者同士で集うことができなくなってしまうから。

それよりも「共にいられる」ことのほうを優先したい。

そして、その共にいる者同士で助け合える関係性、手を差し伸べ合える関係性を構築することのほうが重要だと僕は考えます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。