「きっとそこに何かがある」

その探究心や開拓者精神のようなものが、人々を突き動かす。

しかし、その片鱗に触れたり、明確に何かが「ある」という感触を抱きつつも、いつまで経ってもそこに辿り着くことはできない。

一向に確信めいたものは手にすることができず、ずっと雲を掴むような話ばかりで、そのうちに孤独や不安、圧倒的な無力感のようなものにおそわれるようになる。

これは、自分の中で問いを立てて、何かを探究したことがあるひとは、必ず体験したことがある感覚ではないでしょうか。

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もちろん、僕もその感覚に日々悩まされている人間のひとりです。

でも、西洋、東洋問わず、先人たちはこの感覚に対していろいろな表現を用いながら、似たようなことを語っているのです。

例えば、『大衆の反逆』を書いたオルテガは、「思想とは、真理に対する王手である」と表現しています。

これは言い換えれば、私たちは王手を刺し続けることしかできないという意味でもある。王を取ることは絶対に不可能である、と。

また、ユング心理学の中にも「巡回」という表現があるそうです。

河合隼雄さんと中沢新一さんの対談本の中で、河合さんが「巡回」について紹介している部分が非常にわかりやすかったので、そのまま少し引用してみます。

「ユングがよく使う言葉がありまして、英語でcircum ambulation、『巡回』という意味です。僕の好きな言葉なんですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。」
引用元:仏教が好き! (朝日文庫)

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僕らは決して中心に辿り着くことはできず、その周囲をうろうろさせられるだけ。

いつまで経っても、最初に期待していたようなカタルシスを感じることはできない。

次第に、そのモヤモヤとした宙ぶらりんな気持ちに耐えられなくなって「やっぱり『何か』なんてものはないんだ!」と、またもとの生活に逆戻りしてしまう。

そうすると今度は、「信じたい、安心したい、管理されたい」という欲求が以前にも増して強くなるはずなのです。

なぜなら「何もなかった」という絶望感と、自己の無力感を強烈に味わった後だから。

まだ「漠然とした希望」や「探せば見つかるかもしれないという期待感」があったころのほうが幸せだったのかもしれない。

その結果、「信じさせてくれる、安心させてくれる、管理してくれる」超越的は他者を求めて、全体主義のようなものを自ら進んで積極的に創り出してしまう。

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だからこそ、「中心をうろうろすることしかできない」という先人たちからの言葉は、絶望的な言葉でもあると同時に、ものすごく励みになる言葉ではないでしょうか。

逆に言えば、中心をうろうろし続けることこそが、探し求めていた「何か」そのものでもあると言える。

たったひとりでも立ち上がり、自らの中で問いを立てて、日々「何か」を探究しているひとたちにとって、少しでもエールとなったら幸いです。