現在のNFTの流れなんかがまさしく顕著だと思うのですが、コミュニティ内で何かの価値をメンバー全員で一緒に高めて、それを耕していこうとするとき、その価値を実際に収穫するタイミング、その足並みを揃えることが非常に重要だと思います。

なぜなら、さもないと収穫時期のタイミングで必ず揉めることになるし、それが不和の種になって集団が崩壊しかねないからですよね。

1ヶ月後に収穫したほうがいいと思う人もいれば、1年後、10年後、いや100年後にやっと収穫したほうがいいと思う人もいる。

これは、至るところで本当によく語られているお話です。

ーーー

この点、実際に多くの富を得る順番というのは、もう完全に決まっていて、多い方から順番に100年後、10年後、1年後の順番です。

つまり、すぐに利得を得ようとするひとが結果的に一番果実を得られない。

ただ、そうやって待てるやつは良いけれど、待てないやつは損をするという不公平も同時に生じてきます。

結局、明日の日銭に困っていないこと、そうやって既に富めるものがさらに富む仕組みが、この世の中の偽りのない仕組みであり、構造なんだと思います。

これは、ものすごく残酷な真実だなあと思いますが、ひとつの真実でもあるから正しく見定めなければいけない。

これは何も、お金などわかりやすい果実に限らずに、どのようなメリットだって一番最初に利得を享受しようとしてしまう人が、結果的に一番取り分が少なくなることは変わりません。

ーーー

じゃあ、なるべく「先延ばし」したほうが良いと思いますよね。

実際に、多くの習慣やお金に関わる書籍では必ず同じようなことが語られています。

でも、だからこそ僕は、そこからさらにもう一歩進んで、一番理想的な状態というのは「収穫せずに、それを未来に持ち越す」ってことなんだと思うんです。

そんなバカな、そんなの本末転倒だろうと鼻で笑われるかもしれないけれど、かなり本気でそう思っています。

具体的には「未来に託そう、なぜなら私たちは過去からこんなにも受け取って、こんなにも生きるに困らない暮らしをさせてもらっているんだから」と。

そのうえで、その中核部分はすべて未来の世代を担う人々に託しつつ、そこから溢れ出るおこぼれで、十二分に暮らしを満足できるというのが理想的な状態です。

そんなひとが、実際に一番多くの実利を得られる権利を獲得できるかと思いますし、そんな利他的な人々が集まるコミュニティを構築することが、いま本当に大事な要素なんじゃないのかなと。

実際、一番の「多幸感」というのも実はこんなところに存在しますからね。

ーーー

この点、まず大前提として、未来に託せば託すほど、複利の効果によってそれは大きくなっていくとわかっていても、なぜ企業やインフルエンサーなどは短期的な利益ばかりを喧伝してしまうのでしょうか?

それは、そうやっていますぐ簡単に収穫できることを伝えて人々を釣らないと、そもそもひとが集まってこないからです。

逆に言えば、それほどまでに短期的に得られる利益に、人は敏感であるということなのでしょう。

短期的な利益をぶら下げるほど、人はおもしろいくらいにワラワラと集まってくる。

それこそ「100年後に、100億円が手に入りますよ」という情報よりも、「明日1万円がタダで手に入りますよ」という情報に、人間はどうしても群がってしまう生き物なんです。

だから「あなたが短期間で、こんなにも収穫できますよ!」という情報が世の中の至るところに溢れかえっていて、みんなが明日すぐに手に入るニンジンにつられて行動しているわけですよね。

もちろんこれは金銭的なメリットには限りません。

10年後に10キロ痩せている確実な方法よりも、明日簡単に1キロ痩せる情報に、人々は群がってしまう。

複利の効果を体験したことがない人間というのは、いつまでもこうやって短期の利益に騙されて、目先の利益を食いつぶすことが、自らが一番得する賢い行動だと思って動いてしまう。

でも、本当は一番損をする行動をとってしまっているのです。

ーーー

大事なことなので繰り返しますが、これはどこまでいっても、どんな利得だとしても、その果実を収穫する期限を先延ばしすればするほど、得られる果実が多くなるというのはもう間違いない。

それは完全に歴史が証明してくれているかと思います。

でも、短期的な利益で人を集めて、彼らにそのような情報や商品を売ることが企業活動の中ではずっと一つの正解でした。

それは一体、なぜなのか。

そうやって短期的利益を欲しがる人間から小銭を巻き上げて、それを集中させて長期間のあいだ複利で運用することが一番の得策だったから、です。

でも、企業の論理ではそれが正解だったとしても、コミュニティの世界はたぶんそれはもう功を奏さないんですよね。

むしろ、いかに全員で足並みを揃えて、中長期の視点に立ってコミュニティ全体でその価値を高めようとすることができるのかが、非常に重要になってくる。

そう考えてくると、どれだけその真実に気づけている人が少なかったとしても、一番の中核的な利益は複利で最大化させて、そのおこぼれに預かるぐらいが丁度いいという価値観や感性を持ち合わせたひとたち同士で集ったほうがいい。

たとえそれが、これまでの数十分の一、数百分の一しか人々がその場に集まってこなくても、です。

ーーー

さて、ここで少し話は変わりますが、僕が大好きな言葉のひとつに、神話学者・ジョーゼブ・キャンベルの言葉で以下のような言葉があります。

なんだかわかりにくいなと感じるかもしれませんが、本当に大事なことを伝えてくれていると思います。

この部分はもう何度繰り返して読み返したかわかりません。

ここでいう「今生きているという経験」は、外部から到来するような感覚では決してない。

いつだって、自らの内面から立ちあらわれてくるものです。

じゃあ、一体何をもって、生きているという経験を感じ取ることができるのか。

ひとそれぞれだとは思いますが、外部から到来する利己的な欲望を満たしてくれるものじゃないということだけは間違いありません。

外部からの刺激は、一瞬だけ私の欲望を満たしてくれるかもしれないけれど、それが欠乏したときには前よりも一層、大きな寂しさや悲しさが襲ってきて、更にまた以前よりも多くのものを必要とする。

それは、アルコールや薬物なんかと同じこと。

これは天井知らずで、とどまることをしらないものなのです。

ーーー

だからこそ、僕らが本当に欲しているのは結果ではなく経験であり、内面から立ちあらわれてくる「状態」なんだということを、なるべく早めに理解する必要があると僕は思います。

その経験という状態を得られることが、真に望まれるべきことであるはずです。

極端な話、収穫できる「結果」なんてものは、そういう状態を手に入れるためにひたすら理想として掲げ続けて、人々が同じ方向を向くための「方便」に過ぎないと思うんですよね。

つまり、北極星のようなもの。

そのような北極星のような存在を、鼻先にたらされた一生食べることができない幻想のニンジンだと思うのか、それともそれがあるおかげで、私達が方角を見失わずに、人生という旅をし続けることができているのだと感謝することができるのかどうか。

ーーー

最近よく巷で言及される「今ここ」や「今を生きる」という言葉を安直にとらえて、目先の欲望を満たすことが、私たちの幸せであると誤解してしまっているひとが、世の中にはあまりに多いなと僕には感じます。

そのようなひとたちと、一緒にいると誤った快楽原則に支配されてしまい、本来収穫するべきではないタイミングで目の前の果実を収穫させられてしまう。

そうではなく、自分たち自身のためにも、未来に託すことができるかどうか。

この点、アメリカ人は、インディアンを迫害して、このような考え方や概念を自分たちの手で完全に否定してしまった。

彼らの多くが、短期的な利益だけに右往左往させられてしまうのは、歴史上の宿命でもあるのだと思います。

日本人も似たような意味合いで、アイヌ民族などを迫害してきた過去があるけれど、日本人はまだ自分たちの中にもかろうじてそのような素養が残っている。

それをまた新たに復興していくことが、本当に大事なことだと僕は思います。

ーーー

自分たちが収穫してしまうのではなく、未来にそれを託せること。

それが一番の幸せであると真の意味で理解できるひとたちと共に、僕は生きていきたい。

そのために、毎日その重要性を発信しつづけていたりもします。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。