以前、「所有するからこそ、共有することができる。時代は「DO」から「HAVE」の世界へ。 」というブログを書きました。

このブログの内容、刺さるひとには非常に刺さってもらえたようで、最近書いたブログの中でも、言及してもらう機会が非常に多い記事で驚いています。

そんな中、先日『君たちのための自由論    ゲリラ的な学びのすすめ』という本を読んでいたら、このブログで僕が漠然と伝えてみたかったことが、ものすごく上手に言語化されていて、感動してしまいました。


この内田樹さんのお話と、上記のブログの中でご紹介したヒラクさんのお話は、まさに同じ文脈の話だと思っています。

「公共の再構築」というのが、これから10年において非常に重要なテーマであることは間違いない。

今日は改めて、そんなお話を丁寧に書いてみようかなと。

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この点、もう日本の「行政」や「大企業」には、自分たちの暮らしを任せてはいられないと思っているひとは、かなり多いかと思います。

なぜなら、彼らが「公共」という言葉や概念を盾にして、ありとあらゆヒト・モノ・コトを完全に自分たちに有利に働くように「私物化」してしまっているからです。

でもそれは、彼らが悪人であるとかズルい人間であるとかそういう話ではなく、構造上仕方のないことでもあるのだと思います。(もちろん悪人もいますが)

それぞれが、それぞれに自分たちの利権を守っていこうとすれば、自然とそうならざるを得ない。

戦後80年近く経過してしまうと、そうなるのも当然のことです。

既に、戦後をつくりだしたひとたちの3世〜4世がその役割を担っていて、先代や創業者の創り上げたものを守ろうとすると、本人が嫌でも必ずそうなってしまうんだろうなあと。

歴史上を見てみても、似たような事例は過去にも多数存在している。だとすれば、誰が悪いわけではないことは明白です。

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一方で、公共物こそ「私物化」されてしまっている現代においては、新たな公共をつくりだすために、一旦私物化をして、それを「公共物」として開放していかないと実現しない、志高いひとたちはちゃんと気づき始めている。

参照:ひとりひとりの倫理観が高いほうが自由で生きられる。みんなでフェアネスを担保した場をつくることの重要性。

そして、同じようなタイミングで過去10年間ほど続いた個人のインフルエンサー時代も、徐々に落ち着きつ始めている。

SNSで発信して、個人の欲望を爆発させて注目を集めるYouTuber的な振る舞いも、その内実はかなり幼稚な発想であったことがバレつつある。

こんな幼稚な人間がどれだけ増えても、日本は変わらない。

ちゃんと自分たちの世代が、そのような個人の欲望に振り回されることなく「成熟」していく必要があり、利他的に振る舞うことが今の日本を延命していく唯一の手段であるんだ、と。

それぐらい今の日本の状況は、背に腹は代えられない状況になってきているということでもあるんでしょうね。

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だからこそ、そんな人々が新たな共同体を各地でつくり出し、そのコミュニティに必要な情報をシェアし合って、自分たちで自分たちの「公共」を作り出していくために、能動的に動ける仲間を集めようとし始めているのでしょう。

そのような行動の発露のひとつが、先日も書いたように、公共の構築のための「元祖コミュニティメディア」であるローカルマスメディアとの協業にもつながっているのだと思います。

あとは音声メディアの復権なんかもまさにそう。「コミュニティメディア」の新たな形を作っていくような感覚だと思います。

参照:若者はSNSを頑張るよりも、移住先のローカルマスメディアと良好な関係性をつくったほうがいい。

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さて、この点、今日本各地で開発されているような「ニュータウン」も、見た目は似たような牧歌的なコミュニティの像を描いていて、似たような幻想を見させてくれます。

だけれども、ニュータウンの決定的な弱点というのは、「提供者側と消費者側が、完全に固定化されるところ」にあると思います。

そして、その暮らしやすそうな雰囲気をみて集まってくる人々が全員「受益者マインド」で集まってきてしまう。

つまり、あくまで自分の暮らしを良くするためにしか、自分の私財を投じる気がないんですよね。

だから自分が住むためのマンションを買ったあとは、自分の地域のためには、びた一文支払いたくないというような人たちが非常に多い。

そうやって、住民全員が私利私欲を満たすために利己的な振る舞いをしてしまったら、町はどうなるか。

最初の10年は良くても、その後は町が破綻しかねない。つまり、きれいな箱をつくったり理想的なイメージ像を作り出して「消費者」をどれだけその町に集めてみても、コミュニティの場合にはまったく機能しないんです。

参照:便利で役に立つ空間を創るのではなく、良いコミュニティを創ることの重要性。

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そのように、大手のデベロッパーが行う町開発で提供されるものを、ただお金を払って享受するではなくて、自分たちでお金を集めて、私財を投じて公共物を全員でつくっていく覚悟がある人たちが、集まらないと真の「公共性」は立ちあらわれてはくれない。

言い換えると、全員が「供給者」であり、全員が「受益者」であるという関係性を良しとする人たちを必ず最初に集める必要があるんだと思います。

それは「社会契約」をあらためて契約し直す感じ。より本質的に、ルソーの「一般意志」を実現していくようなイメージです。

参照:「徳の高さ」とは何なのか。「お行儀の良さ」との違いと「一般意志」との関係性。

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もちろん、この公共の再構築の過程は良いことだけではなく、面倒くさいことも山ほどあると思います。

でも、その面倒臭さにかまけて、すべてを税金やお金によって国家に外注し、大企業に外注してしまった結果、その成れの果てが現代の「個人主義」の行き着いた先でもある。

だとすれば、やはりもう一度新たに自分たちの公共性を立ち上げる必要があると思います。

そして、僕が感じる石見銀山という町のすごさは、まさにここにあるんですよね。もう何十年も前から、ずっとそれを淡々と行い続けている。

だから僕は、この町が日本の、いや世界の先進事例だと思っています。

参照:大切なものを守るために変わり続ける町、石見銀山・大森町。

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そして間違いなく、NFTというのは、この新たな公共性、そこから生まれるコミュニティの「住民票」や「パスポート」代わりになるし、それだけではなく、すべての「契約」や「財政」の基盤にもなっていくはずです。

それは、トレジャリーウォレットという新たな形として。

今イケハヤさんたちがつくっている「CryptoNinja Nouns」は、まさにその先進事例。
みんなのお財布を作り出して、みんなの「私物」をみんなでつくりだす。それを、みんなで大切に扱いながら、次世代に引き継いでいく。

それが結果的に、次世代の「公共物」となっていくのでしょう。

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最後に、僕が今強く思うのは、もしこの公共性とNFTが本当の意味でしっかりと噛み合い、機能し始めたら、労働によって稼いだお金ですべて外注することよりも、より快適な暮らしが誕生すると思いますし、同時に個人の帰属意識も満たされることは間違いないと思います。

つまり、もう「個人の帰属意識」と「暮らしの快適さ」が、トレードオフではなくなると思います。

参照:次世代に遺していきたいと思える理想的な「公共性」を自分たちの手でつくりだす。 

だからこそ、私物を公共物にする人々が集まる共同体をつくっていく感覚が、いまどんな状況にいるひとたちにとっても非常に重要な変化だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。