先日、為末大さんが配信されていたVoicy「現実は正しい」という配信回が、とっても素晴らしい内容でした。
勝手に内容を要約してみると、「どうあるべきか」と「実際にどうするか」は全くの別物であるということ。
これは、リスクテイクの問題であって、そのときに必要なものは「勇気」なのだと。
だからこそ、何事においても「で、具体的にはどうするの?」と自らに問いかけて次のアクションを考えて実行することが大事だと。
これは、ものすごく重要なお話だなと思います。
そして、この「勇気」というのが、いま非常に重要なキーワードだと最近強く感じています。
そして、逆に言えば「勇気」だけが、ひたすらにくじかれてしまっているのが、今の社会とも言えるのではないのかなと。
ゆえに、僕らがこれから養う必要があるもの、取り戻したほうがいいものは「勇気」であることは、紛れもない事実なのだと感じます。
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だけど、ここで非常に重要なことがある。
それは、「勇気」というのは、とても厄介なことにひとりで養えるものではないんですよね。
お互いに「親切」に接し合うという対人関係やコミュニティの中に身を浸して、相手の中にある潜在的な「勇気」をお互いに引き出し合う必要があるんです。
ひとりで「勇気」を獲得できるひとなんてそもそもいない。
「親切」に接してくれて、信じてくれる他者が必ず必要なる。そのための交流の「場」が、いま本当に重要だと思います。
今日はそんなお話を少しだけ書いてみます。
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この点、「正論」をぶつけ合い、「べき論」を徹底的に尖らせてきたのが、 過去10年のSNSという空間、そしてそれに紐付いた社会だったのではないでしょうか。
それは、子どもたちの社会的な正確の変化を見ていればとてもよくわかる。
「とにかく失敗したくない、突出して目立ちたくない。できるだけ、まわりに埋もれていたい」と願う若者が、いま急激に増えているそうです。
最近、多くの書店でも平積みされている『先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち』という本のオーディオブックを聴いてると、それが痛いほどよく伝わってきます。
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じゃあ、そんな若者たちを筆頭に、現代を生きる人々に対して「勇気」を持ってもらうためには、どうすれば良いのでしょうか。
以前もご紹介した思想家・内田樹さんと京都精華大学学長・ウスビ・サコさんの対談本『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』にとても参考になるお話が書かれてありました。
キーワードは「親切」です。
スティーブ・ジョブズの言葉ですが、若者にとって最も大切なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだと思うんです。誰にでも心と直感はあります。「こんなことをやっていていいのかな」とか「こっちのほうに行きたいな」とか思うことはある。でも、今の若い人たちはその直感と自らの気持ちに従わない。「そんなこと誰もやっていないよ」と周りに反対されたら、それで簡単に 挫けてしまう。周りの反対を 撥ね 除けて心と直感に従うことができる若者が本当に少ない。そもそも日本の学校では子どもたちに「勇気を持て」と教えることはありませんからね。そういう教育を 20 年もの間受けてきた子どもたちに、いきなり大学で「勇気を持て」と言っても無理です。だからその前段として、「親切にする」ということが必要だと僕は思っています。親切にしてあげて、この人にだったら自分が本当に思っていることを言っても処罰されない、という保険をかけてあげる。周囲の人から明らかに反対されるようなことも、この人になら言っても大丈夫なんじゃないか……そんな寛容さを担保してあげる。
「どうあるべきか?」という話ばかりに大人たちが終始してしまった結果として、ものすごく鋭く尖った「ポリティカル・コレクトネス」といった正論の刃が、世間を覆い尽くしてしまっていまるのが現代社会。
そうやって、その刃によって正論に反する人間は社会的に抹消し、公開処刑を繰り返すことで、実際に「平等」やカギカッコつきの「多様性」のようなものが生まれ、安心安全な社会というのは実際に少しは生まれたかもしれない。
だけれども、一方で多くの人々が、自分の中に存在する直感に従ってみようという「勇気」は完全に失ってしまったわけです。
つまり、そのべき論や正論は「諸刃の剣」でもあったわけですよね。
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でも、いよいよ正論だけではなく、実際に行動をして動き出さないといけないフェーズに入ってきた。
なぜなら、優等生を演じるのではなく、ひとりひとりが自身の直感にしたがって、勇気を持つ行動を行えるようになっていくことが、新しい挑戦を生み出し、次の事業を作り出して、唯一、社会をより良くしていくことに繋がるはずだからです。
そのための新たなコミュニティや、公共性のようなものを僕らは立ち上げていかなければいけないのだと思います。
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これは、少しメタ的な視点になってしまいますが、国家や自治体がどうあろうと関係ない、自分たちの手でその公共性を構築していく「勇気」が今、とても重要なんだろうなあと。
具体的には、お互いにそれぞれの中に存在している「勇気」を、お互いの「親切」を経由して発掘し合わないといけない。
そして、それこそが「利他的であるということ」にもつながるのではないでしょうか。
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この点、最近、政治学者・中島岳志さんの『思いがけず利他』という本がオーディオブック化されたので、改めてこの本を聴き返してみました。
以前はあまりピンと来ていなかったお話が、今回はすごく刺さったのですよね。
具体的には、利他において重要なのは、「支配」や「統御」から距離を取りつつ、相手の個性に「沿う」ことで、主体性や潜在能力を引き出すあり方なのではないか、と。
以下で、もう少しだけ引用します。
つまり、受け手が相手の行為を「利他」として認識するのは、その言葉のありがたさに気づいたときであり、発信と受信の間には長いタイムラグがあります。ここに「利他」をめぐる重要なポイントがあります。 「利他」は、受け取られたときに発動する。この原理は、次のように言い換えることができます。 ──私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。 私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。
利他の主体に押し上げること、そのように生まれた利他を循環させていこうとする場所が必ず必要になってくる。
これがつまり「親切」を行うということ、そのものなんじゃないでしょうか。
だから僕は今、こんな時代背景だからこそ、ひとりひとりの「親切」によって、ひとりひとりの「勇気」が再度取り戻されるような空間をつくっていきたい。
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もし、そのような場所を見下すような人々や、他者になめた態度で接してくるひとは、なるべくそこには近づけないようにしていきたいし、どれだけお金が手に入ろうとも、そのような人々に自分たちの居場所は絶対に手渡さない。
なぜなら、それこそが、今僕らにとって一番かけがえのない価値だと思うからです。
Wasei Salonのメンバーのみなさんも、本当によくそれを理解してくださっていて、一人ひとりが、しっかりと自らの思う親切を他者に分け与え、他者から得られた勇気を「私の一歩」を踏み出すという形で実際に実現してくれている。
誰かの勇気と親切が、次の誰かの勇気と親切につながっていく。
これこそが真の利他性であり、その循環を生み出すことがものすごく大切なことのように思っています。
それは、今のNFTコミュニティを見ていても本当に強く感じます。
誰かの勇気と、コミュニティ内における親切心が次の、新たなNFTコミュニティを生み出すことにもつながっている。
そうやって、今の状況を受け入れつつ、勇気を出せる人達が少しずつ増えていったときに、世の中は本当の意味で変わっていくのだろうなあと。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。