このブログではもうおなじみの発酵デザイナーの小倉ヒラクさん。

下北沢に「発酵デパートメント」というお店を出されていて、そのお店の運営にまつわるツイートがすごくおもしろかったです。


ーーー

このあとに続く一連のツイートの内容も本当に素晴らしかったので、ぜひ直接リンク先で読んでみて欲しいです。

で、僕はこの問題意識は、本当によくわかるなあと思いながら読んでしまいました。

現代は、他者を歓待し、他者をもてなすことが、昭和的な悪しき「接待」の習慣と混同されて嫌われがち。

ゆえに、避けるべきもの、不公平や不平等を助長するものだと思われているフシがあるような気がしています。

そして、全員に対して、平等で効率よく、なおかつ生産的に!その思想の末路が、セルフレジとタブレット注文などに帰結しているようなイメージです。

ーーー

じゃあ、本当に「接待」が悪なのかといえば、そんなわけはありません。

でも、ここにもまた落とし穴があって。

現代はお金の有無で扱いを変える、VIP的な対応が主流です。ディズニーランドのファストパスみたいなものも、そうですよね。

それはむしろ、訪れる人が「何を持っているか」によって対応をガラッと変えるわけですから、差別を助長する悪しきものと見なされるのも、当然のことだと思います。

でも、現代で語られる「歓待」だと思われていることはすべて、こちらの文脈に集約されてしまっているような印象です。

インバウンド観光から、顧客ランク制度、インフルエンサービジネスに至るまで、ありとあらゆる顧客対応のノウハウがすべて「あなたは何をどれぐらい私たちのお店に与えてくれますか?」という指標の上で成り立っている。

それは先日もブログに書いた通りです。


ーーー

で、ヒラクさんの語るように、本当の意味で、歓待をされる体験が減ったというのは、そのとおりだと思います。

じゃあ、その原因は一体なぜなのだろう?と考えたくなってしまいます。

このあたりから、今日の本題にも入っていきます。

ヒラクさんは、その原因を以下のように考察されていました。

地方の伝統的なコミュニティで生きていたり、客間のある人の出入りの多い社交的な家庭で育ったり、異なる文化圏を行き来する人生を送っていたりすると「おもてなし」は日常に埋め込まれている。しかし↑の条件に当てはまらない環境だともてなす、もてなされるという経験が発生しないかもしれない。


ーーー

原因のひとつとして、これは間違いなくありそうですよね。

じゃあ、自分が何も持たなくても、ただただ歓待してくれるのは、一体誰か?

言い換えると、この世界に突如産み落とされたあと、一番最初に、一番私のことを歓待をしてくれる存在とは誰か。

無条件にもてなして甘やかせてくれる存在。

たぶん、それは「両親」じゃないんですよね。

それがきっと「おばあちゃん」なんだろうなあと。

つまり、僕は、現代の若い人たちが「おもてなし」がわからないという話って、実は「おばあちゃんの不在」の話とも、ダイレクトにつながるなと思ったんです。

もちろん、これは先日おのじさんと先日配信したVoicyの内容につながる話です。


孫がおばあちゃんから受け取る無条件の圧倒的な歓待、それが将来大人になったタイミングで、自分とは年齢や価値観がまったく違うけれど、どんな他者であっても「もてなす、歓待する」という感覚へとつながっているんじゃないかという仮説が、今日の僕の一番の主張です。

ーーー

まさに、おばあちゃんからバトンを受け取るようなイメージ。

おばあちゃんから得られた、おもてなし感覚を頼りにして、他者に振る舞われるようになるのではないかと思ったわけです。

だって、先に圧倒的に受け取ってしまうわけですから。

大人になって、のちのちおばあちゃんからの「贈与」を発見してしまうからこそ、他者をもてなそう、もてなさずにはいられない…!ということにもなる。

少なくとも、幼少期にそこで初めて身体知を通して学んだ感覚を頼りにしながら、もしくは核としながら、膨らませていくようなものが「歓待する」という感覚なのかもしれないなあと。

ーーー

あとは、ちょうどこのつぶやきに対して、石見銀山の群言堂の社長である松場忠さんが反応してくださっていたんですよね。

僕が、本当に世界で一番「接待力」が高いなあと思うのが、群言堂さんです。

じゃあ、それは何で養われているのかと思ったら「石見銀山」という歴史や文化であり、「古民家」だなとも思ったんです。

つまり「おばあちゃんの家」のような存在。

おのじさんとのVoicyの配信の中で「AIは、おばあちゃんという存在を代替することができるのか?」という話で盛り上がりましたが、AIには新築マンションのような快適な包摂力は作り出せても、古民家のような包摂力は作り出せないだろうなと僕は思いました。

そして、あの古民家ならではの包摂力は、きっとおばあちゃん的なもの。

美しいシワが入ったような、エイジング作用から生まれてくる包摂力。

逆に言えば、アカウント開設しているとか、課金しているとか、富裕層でお金を持っている人間が偉くて歓待されるとか、そういう次元の話じゃないということです。

その歓待のモデルは、AIでつくれるかもしれないけれども、おもてなしの本質はそこじゃない。

ーーー

あと大事なことは、古民家には当然そこには居心地の良さや包摂力だけではなく、「不気味さ」みたいなものも同時に宿っているわけです。

おばあちゃんの老いの中にも同様にそんな不気味さが内在する。

こちらも、非常に重要な観点だと思います。

この点、河合隼雄さんは、『こころの読書教室』という本の中で、「畏れる」という感覚について、以下のようなことを書かれていました。

今日の話にも見事につながるなと思ったので、少し引用してみたいと思います。

圧倒的に己を超えるすごい存在があって、それは畏れるべきものです。この「畏れる」という感情を人間が失ったら駄目ではないかと僕は思いますね。現代人は下手すると畏れかしこむということができない人が多いですね。なぜかといったら、現代社会ではたいへん便利になり、たいがいのことは自分の思いどおりに何でもできてしまいますから。電子レンジでチンとやれば冷たい食物も温かくなるし、欲しいものは食べられます。行きたいところはどこまでも、月までだって行けるので、何でもできるように思うのです。しかし、 畏れかしこむという体験が人間の根本にはあるんですね。


ーーー

この感覚を幼少期に授けてくれるのが、古民家やおばあちゃんの不気味さだと思うんですよね。

でも、それは単純に怖いだけではダメなはずで。そこには、先に圧倒的な包容力が必要不可欠でもある。

よく河合隼雄さんが「先にそこに深い信頼があるから『怖い話をして!』と子どもたちはせがんでくるんですよ」と語ります。

もし、子どもたちから怖い話を頼まれるなら、それは相当深く、子どもから信頼されている証でもあるのだ、と。

そして、その怖い話も含めて「つくり話」と「むかし話」ぐらいの差があるってことだと思うんです。つくり話ではなく、むかし話のほうを語ってくれるのが、おばあちゃん的存在。

まさに、水木しげるの『のんのんばあとオレ』の世界観のようなお話です。


ーーー

そして、それがそのまま山陰を舞台にした次の朝ドラ『ばけばけ』の世界観なんかにもつながっていくなあと思いました。

つまり、小泉八雲が辿った道です。

のんのんばあが語るような「妖怪話」や『怪談』、それを奥さんであるセツから聴いて、島根の松江に広がっていた古民家や共同体も含めて、おばあちゃん的なものに完全にノックアウトされてしまったのが、きっと当時の小泉八雲だったということなのでしょうね。

明治時代の初期、既にVIP的なもの、つまり帝国主義的なものや資本主義的なもの、そんな新しい時代の変化に対して、完全に辟易していた小泉八雲が、最後にたどり着いた場所が日本(島根)だったのだと思います。

ーーー

おばあちゃんに、歓待されたことがあるかどうか。

そして、自己の幼少期の体験を頼りに、他者をおもてなしすることができるのか。

これは本当に見事に、コミュニティや共同体の話なんだと思う。

さらに、このおばあちゃんの存在は、昨日も書いた「弔い」の最大の契機でもあるよなと思いました。こちらも地味にめちゃくちゃ重要なポイントだなと思っています。


過去を決算し、再出発する、それが弔いです。

言い換えれば、弔うことで、過去の系譜をつぎ、新たに再出発することができるようになる。それが弔いの力だとすれば、おばあちゃんをあの世へ見送るのは、その最たる例だなと思うのです。

ーーー

「こんなにも、もてなしてもらったんだから、次にもてなすのは、私の番だ」と素直に思えるはずで。

おのじさんがVoicyの配信の中で「AIは、自分より先に死ぬはずがないと感じるから、おばあちゃん的存在にはなり得ないと思う」という話をしてくれていたけれど、本当にその通りで。

おばあちゃんという存在は老い衰えて、僕らよりも先に死んでいくことが宿命付けられている存在です。

そんな寿命ある儚い存在だからこそ、「弔い」の契機を、現世に残る僕ら共同体に等しく与えてくれる。

そうやって、おばあちゃんの死を通じて、弔いを学び、僕らは再出発する力を獲得することができる。その死は決してネガティブなことだけではないということだと思います。

ーーー

考えれば考えるほど、おばあちゃんと「おもてなし」や「歓待力」には相関関係があるように思えてくる。

AIにもできないことだし、AIがすべてを奪っていくからこそ、最後に残る砦のような気もしています。

だとしたら、コミュニティに、そんなAIではつくることができない美しいシワを入れていくことが、これからはとても大事なんだろうなと思います。

言い換えると、みんなで古民家的な包摂感を、共同体としてつくっていく感覚にも近い。きっとそこに河合隼雄さんが語る「イエ」のようなものが立ちあらわれてくると思う。

いま、ここにものすごく大きなヒントがあると思っています。

ーーー

最後に、Wasei Salonの中では、実際におばあちゃんについての対話回イベントが開催されることも決まりました。

ご興味がある方は、ぜひご参加ください!

https://wasei.salon/events/eec05f6f084b

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。