最近、夜の散歩のときに淡々と、太宰治の名作集のオーディオブックを聴いています。
この年齢になって、改めて教科書で読んだことがあるような太宰治の作品を聴いてみると、全く違う印象を受けることに驚かされます。
今日の本題とは直接繋がらないため、それぞれの作品について、ここでは詳しくは書かないけれども、こんなにも優れた感性を持ち、しかもそれを言葉にできてしまうなら、そりゃあ、彼にとってこの世界は生きづらかっただろうなあと思わされる。
ゆえに、太宰治は紛れもなく天才だと思うし、自分が高校生や20代のときに理解できるはずもないだろうなあと、深く納得してしまう。
きっと太宰は、繊細で脆く、儚いひとだったんだろうなあとも思います。
だからこそ、このような作品の数々を書けているんだということも、自分が文章を書くようになってみて痛いほどよく伝わってきます。
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さて、今日の本題はここからで、先日ポッドキャスト番組「オーディオブックカフェ」のゲストでもお越しくださった文学紹介者・頭木弘樹さんの『絶望名言 文庫版』という本の中に、芥川龍之介にまつわるとてもおもしろい話が書かれてありました。
あまりにもハッとさせられる内容だなと感じたので、今日はその内容を少しご紹介してみたいと思います。
まず、頭木さんは芥川竜之介の『侏儒の言葉』の一部を引用します。
少し要約して内容だけをご紹介をすると「人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。あらゆる日常の瑣事の中に堕獄の苦痛を感じなければならぬ。」といったような内容です。
そして、この芥川の文章に対して、頭木さんは以下のように語られていました。少し本書から引用してみます。
これはじつは、ぼくは非常に衝撃を受けた言葉なんです。ちょっと言い方は難しいですけれど、前半はようするに、日常のなんでもないささやかな細部を大切にし、その美しさとすばらしさに気づいていくことが、人を幸福にしていくと。そういうことを言っているわけですよね。
(中略)
ところが芥川の言葉は続きがあるんですね。ささやかなことを愛する人間は、ささやかなことにも苦しめられなければならないというふうに後半で言ってるんです。
これはたとえば、道端の花の美しさに気づく人は、その花が枯れていく悲しさにも気づいてしまうわけですよね。
(中略)
だから、ささいなことで幸せを感じることのできる人は、ささいなことで、そういう辛さも感じてしまうというふうに芥川は後半で言ってるんです。これは非常に鋭い指摘で、言われてみれば、たしかにそうなんですよね。
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これはとてもよくわかるお話だし、それゆえに非常にハッとするお話でもあるなと僕は思いながら読んでいました。
そして、そんな感性を持つひとが、自殺したくなるほどに死にたくなる気持ちも、なんだかとてもよくわかる。
「将来に対するボンヤリとした不安」を理由に自殺したのは芥川龍之介ですが、でもその芥川に心酔していたのが、太宰治だったと考えれば、似たような孤独感をきっと彼も抱えていたんだと思うのです。
つまり人は、日常の中の細やかな美しさや素晴らしさに気付けるようになると、幸福になると同時に、一方で絶望し、死にたくもなる。
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じゃあ、それが悪いのかと言えば、決してそうではないと僕は思います。
少し話は逸れる気もするのですが、これは心理学の「逆転移」にも似ている話だなと思っています。
カウンセラーとクライアントの間で、相手のことを、ものすごく心配になったり、申し訳ないと思ったり、あるいは絶対に救ってあげたいと思ったり、大嫌いになったり大好きになったり、こういうカウンセラー側のこころの揺れ動きを「逆転移」と呼ぶと、東畑開人さんは、以前ご著書の中で書かれていました。
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そして、東畑さんの『雨の日の心理学』の中にこんな言葉が出てきます。こちらも非常にハッとさせられる言葉だったので少し引用してみます。
逆転移は悪いことじゃないんですよ。ちゃんとかかわっているから、僕らのこころは逆転移に覆われるわけです。薄いかかわりしかしていないなら、あるいは高みの見物しかしていないなら、こころは動揺せずに、冷静でいられる。
でも、それじゃダメなんです。ケアとはつながりによってなされるものです。ちゃんとかかわっているという事実が何よりも素晴らしいことだと思う。 ちゃんとケアしているからこそ、あなたはつらくなっている。
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これを読むと、絶望と希望が同時にやってくるような、泣き笑いしたくなるような、なんて優しい言葉なのだろうかと思う。
つまり、人を大切にすればするほど、自分が傷つく、絶望する可能性もより一層高まるわけです。
でもそれは同時に、対象としっかりとつながっている証でもある。
もちろん、ケアと逆転移が適切に使い分けられることが、大切であることは間違いない。
でも、人間はそこまで高機能なシステムではない。ゆえに、鈍感にも敏感にも、どちらにも優劣あって、甲乙つけがたいなと思うのです。
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また、過去に何度もご紹介してきた、小説家・喜多川泰さんの「好きだから大切にするんじゃない、大切にするから好きになる」みたいな話ともこれは非常によく似ていて。
最初に自分から進んで大切にするから、対象を好きになれるし、結果として対象以上に、自らが傷つき、絶望することだってあるわけで。
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でも、僕はその最初の動機、その傷つきのきっかけ自体は決して間違っていないと思うのです。
というか、僕は声を大にして「それは間違っていないし、それこそが素晴らしい!」と言いたい。そんな欲求が、なぜか僕には本当に強くあります。
それは、相手を心の底から大切にしたいという想いそのものだから。
東畑さんが書かれているように、ちゃんとかかわっているという事実が何よりも素晴らしいことだと思います。
そして、世界のなかに広がる日常の瑣事を愛したいという芥川や太宰の思いにも、これは見事につながる話。
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逆に言えば、その傷つきを恐れて、自己の感性のほうを殺す方向、他者を大切にする姿勢や態度を、最初から押し留めるというようなことだけはしないでくれ、お願いだ…!とも思ってしまう。
でも、そうやって懇請すればするほど、感性が豊かで優しいひとほど、すぐに逆転移のような同化現象が起きてしまい、自らが絶望してしまい、自殺さえしたくなる。
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さて、困りました。
もし、明確な救いの手段やノウハウが存在するのなら、彼らはもうとっくの昔に救われていると思います。
人類の長い歴史、科学とは関係ないジャンルでもあるわけですし、こころの問題ですから、すでに解決策が存在していてもおかしくないですからね。
でも、未だに存在しない。それが未だに解決策は存在しないという真実、その何よりの証しだと思います。
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じゃあ、一体どうすればいいのか。
直接の答えにはならないけれど、僕はそんな絶望や挫折体験を支えたいし、静かに寄り添いたいなと思う。
だって、それは人間が生きるうえで非常に大事なことだから。決して思い悩んで、自殺なんてしないで欲しい。
そういうひとたちにこそ、そっと寄り添い、共にいることを実践したい。それしかできないし、それに一体何の価値があるかもわからないけれど、でもそうしたいと思う。
そして、Wasei Salonも、そんなことを実践するための場でありたいなと強く願います。
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「決して、あなたひとりじゃないよ」という姿勢を示していきたい。ものすごく非力なことであったとしても、これが唯一の救いのような気がしています。
たとえば、あの宮沢賢治も、自殺ではないけれど、感性が研ぎ澄まされた優しさを大事に持ち合わせていた結果、『雨ニモマケズ』を書くような、そしてそれを自分の懐の手帳にだけ書き残して、生前には絶対に作品として発表しなかったような人間なわけです。
その絶望を、私にも分けてくださいと思う。
そうすれば、きっと励まされるものがある、勇気づけられるものがある。少なくとも自殺せずにいられる。ひとりで、抱え込まなくていいこと、その力強さです。
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ただ、僕はもっともっと愚かであって、一人で受け入れられる自信なんてまったくない。
その点で言えば、カウンセラーという職業、臨床心理士という仕事をされているひとたちの打たれ強さはプロボクサーよりも圧倒的にすごいなと思う。
一体どんなシックスパックを持っていれば、それらをすべて受け止められるんだろうと、本当に脱帽してしまいます。だからこそ、プロフェッショナルなんでしょうね。
僕は自分だけでは絶対に無理。だから助けてくれませんか、一緒に受け取りませんか。コミュニティ内でグルグルさせてみませんか、と思うんですよね。
もちろん、受け取るだけでもなく、相手にも受け取ってもらって、持ちつ持たれつのお互いさまの関係性、そんな日常をつくりだしてみたい。
そうやって、全員が仏教における「抜苦与楽」のようなことを日々の日常の中で行う感覚で、贈与者でもあり、受贈者でもある、そんな状況をこのコミュニティの中でつくっていきたい。
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決して、何か新しく画期的な解決策があると喧伝し、下手に希望をもたせるわけでもない。
ただただ、ありのままの現実を見定めながらも、それでもこの地獄みたいな世界を共に歩んでみませんか。生きることはこんなにも、むずかしいし絶望的。でも、そんな道であっても、共に歩けば、きっと楽しいし、きっとおもしろい。
それがこの場を通じて、僕がみなさんと共に行っていきたいことです。
逆に言えば、僕はそんな弱々しい旗を立てることしかできないわけなのだけれども、でも、これは小さな共同体内で循環させることができれば、少しはお互いに楽になれるはず。
その楽になった体験それ自体が、相手と、そして自己の苦を和らげることにもつながるはずです。
人と人とが、本当の意味で和を成すことで「抜苦与楽」も本当の意味で実現する。僕はそう信じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
