昨日配信したVoicyは、おのじさんがゲストの回でした。
テーマは、「肯定」と「承認」と「否定」の違いについて。
めずらしく、おのじさんがあまりに混乱しすぎて、収録を途中で止めてください、とお願いしてくるような内容となりました。
ただ、これは冒頭から余談なのですが、そうやって、対話の中で、思いっきり混乱することも大事だなあと思っています。また、それが対話型の音声コンテンツの魅力だと思っています。
既に答えが出ていることは本やブログ、テキストでお互いに読めばいいのだから。わざわざ人間が対話をしながら、わかっていることを改めて深めていく必要はない。
その対話を深めていく過程、混乱やそのプロセスも含んで、声で配信できることが対話型音声コンテンツのいいところ。
だから僕は、混乱も大歓迎です。
そして実際、この配信を既に聴いて、考えてくださった方々も多かったようで、Twitter上などでも、いくつかコメントいただけて本当に嬉しかったです。
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で、まずは改めて以前タイムラインにも投稿した僕の解釈を改めて書いてみたいと思います。
僕は、「肯定」と「承認」って、似ているようでそこには天と地ほどの差があると思っています。
肯定=道徳的賛美
承認=構造として受け止める
否定=断固「受け入れない」を表明すること。
世の中のほとんどの出来事は「承認」にとどまる。
肯定できることなんて、1割にも満たない。
でも同時に、否定もしていない。8割は、承認しているつもりです。
にも関わらず「承認をしたから、肯定もした」と勘違いする人も多いし、肯定しなかったということは否定をしていて、承認さえもしていないと思う人も多い。
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じゃあ、この3つの本来のバランスとは何か、が問題となる。
きっと理想としては、肯定1割、承認8割、否定1割ぐらいがバランスとしては適切だと思います。
でも、現代は論破合戦やイデオロギー論争が耳目を集めやすいために「肯定・否定が50・50」として立ち振る舞ったほうが、他者の耳目を集めやすい世の中になっている。
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で、ここ数年の新たな変化としては、そんなインフルエンサーたちの論破合戦、お互いに罵倒し合う様子を横目で眺めながら、あたらしいスタンスが生まれていて、それが「承認」の幅をもっと広げようという態度だと思います。
インフルエンサーの論争を反面教師として、「承認を大事」だと。でもどうしてもそれは教科書的な承認、つまり多元主義へと向かってしまう。
それは相手や他者を包摂しているようで、むしろ圧倒的な排除につながってしまっている。「排除の中の肯定」の論理に行き着きがち。
あなたの価値観は尊重するけれど、だったら私の視界には入らないでください。お互いに棲み分けましょう。別々の世界で生きましょう。あなたがどうなろうがしらんけどね、と。
そりゃあ無限に界隈が広がるよなあと思います。
これが昨日の配信の中でもお話した通り。
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で、そこから、さらにもっともっと振り切って、そもそも肯定や否定の感覚を持つから対立するんだから、そのどちらも一切持たないという選択肢が生まれ始めていること。
つまり、不干渉であり不感症としてのすべてを承認する姿勢。私の肯定感覚と否定感覚のほうを捨て去ってしまう。
一見すると、ものすごく合理的で、理にかなっているように見える。
どこにいっても歓迎されるし、愛される。ただ、自我を一切持たないそんな空っぽな人間が完成する。
それを描いたのが、連日ご紹介してきた村田沙耶香さんの『世界99』というディストピア小説だと思います。
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つまり、肯定と否定ばかりにこだわりつづける人々を見て、すべてを承認すれば、もっと単純に生きやすくなるでしょうという逆張り思想が今、登場しているわけですよね。
主体のほうこそを殺せ、私自身を殺せばいいという認識。
なんというパラダイムシフト。確かにそれですべてが解決しそうにも思える。
でも、この小説がディストピア小説であるように、その自分本位の「肯定」と「否定」の感覚にこそ、人間性は宿るということでもあるわけですよね。
たしかに、どの界隈へ行っても「あなたはそういう意見なんですね、はいはい、今から私のほうがチューニングしていきますね」としていけば、誰からも嫌われることもなく、生きやすくはなるけれど、一体私は何のために生きているんだっけ?という虚無感が訪れる。
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だからこそ、教育の場面になったときには、子どもたちの「主体性を持つこと」を強調するわけですよね。
「あなた自身の自我を持ちましょう、そしてソレを大切にしましょう」というふうに。
でも、そうなったときにまた肯定と否定を争い、バチバチし始める同じループに陥る。
また振り出しに戻り、同じ構造が生まれてしまう。
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で、またさらに別の視点から、今度はそのギスギスに耐えられなくなり、推し活や陰謀論のような他者が搾取するために作り出した誤った方向に、自らのいきがい、つまり「肯定」の感覚や「主体性」を置いてしまうパターンもある。
そっちのほうのディストピアを描いているのが、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』です。
じゃあ一体どうすればいいの?どっちに振り切っても、なんだか行き止まりに思えてしまう。
ここに本当の答えはあるの?とも思えてくる。
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で、ここで一気に話が脱線します。
必ず最後は本筋に戻り、着地させるのでぜひついてきて欲しいのですが、僕はここで大事な視点は「弔い」だと思っています。
ちなみに僕が言う「弔い」というのは「再出発する力」のことです。
いつも語る「リセットする力、ブレない力、再出発する力」の三種類における再出発する力のことです。
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現代は、今すでに芽生えている最先端の技術から考えるだけでも、人類の行き着く先はもはやある程度は明確に定まっていて、少なくとも現代人の価値観からすればそれはディストピアの可能性が非常に高いと思います。
でも間違いなくその方向へと、これから音を立てながらドラスティックに変わっていくことが自明だからこそ、僕は他者への敬意と配慮と親切心、そしてなにより「弔い」が大事になると思っているんですよね。
その弔いの感覚や、死者及びこれから死にゆく者たちに手を合わせる感覚こそが大事になると思っているのだけれど、この感覚があまりうまく伝わらないなあといつも感じています。
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たとえば、AIの変化なんて、ものすごくわかりやすい。
これからAIありきの生活にガラッと変わるが明確なんだから、もう四の五の言わずに従え、と。
それこそ「いつまで従来のやり方に固執してしがみついて、執着しているの?」ってやたらと煽ってくるわけですよね。
そして、それは圧倒的な正論。見る人が見れば、それはもう「すでに起きた未来」だから、です。
産業革命を見ろ、明治維新を見ろ、インターネット革命を見ろ、と。それよりもさらに大きな津波がいま我々の目前に迫っているんだ、と。
逆に言えば、それはこのように「既に起きた未来」だからこそ、いくらでも煽ることができてしまう。遅かれ早かれ、その津波は必ず到達し「ほら、僕が言っていたことは正しかったですよね」と言えてしまうから。
関東大震災や南海トラフ巨大地震を今から煽り続けていれば、確率論的に、いつか必ずその予言が成就するという話と、全く一緒です。
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でも「そうは言っても、感情が追いつかないんだよ!」という人たちもいるわけです。
つまり、従来的な価値観の「死」を受け入れられないという人々がいる。
愛する人の死や、ペットなどの死に限らずに、思想や価値観だって全く一緒です。
むしろ、思想や価値観のほうが折り合いがつけづらい。だって、まだ眼の前に残存しているから。でも、実質的にはもうほとんどそれは死にかけている。
で、「もう死ぬことは確定しているんだから、家族であっても放っておいて、未来に備えろ!そんな過去の遺物と化した人間にいつまでしがみついて看病しながら、いきがいを感じても仕方ないんだ!」と言われたら、さすがにそれは言いすぎだろう、と思うはず。
思想や価値観も、原理的にはそれと一緒のことだと思うんですよね。
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ゆえに、僕はこれから音を立てながらドラスティックに変わっていくことが自明だからこそ他者への敬意と配慮と親切心、そしてなにより「弔い」、その感覚や死者及びこれから死にゆく者たちに手を合わせる感覚こそが大事になると思っている。
そうすれば、みんなで一緒に「再出発する」ことができるわけですから。
それぞれが固執する「肯定」と「否定」にも折り合いがつけられるようになる。
このあたりの感覚が、本当にうまく伝わっていたらとても嬉しいです。
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で、このあたりから冒頭の本題にもつながっていきます。
逆に言えば、政治的な対立や過度なテクノロジーに対するアレルギー反応などから来る過去に「戻りたがる」願望というのは、ちゃんと弔わないから起きることでもあると思うのです。
「日本人ファースト」や「昔のほうが良かった!」も「現実を見ろ、未来を見て前を向け!いつまで過去の出来事に執着しているんだ!」という圧倒的な正しさから来る、過去への執着にほかならないわけですから。
でも、現代人は、弔いなんて科学の時代にバカバカしいと、蔑むわけです。
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そして、お互いの気持ちの整理をつけて、再出発しようとしないから、ずっとズレ続ける。
つまり、そこに「祟り」が起きてしまう。
祟りっていうのは決して、あちら側からこちら側に働きかけてくるものではなく、現世に残っている人間たちの認知の問題。つまり、嘘から出たマコトなわけです。
死なずに生き残った人々の中にある「あの死が弔われていない」という感情が先にあって、そこにちょうどよく祟りというウソが現実味を帯びる。そして人々の恐れる心は肥大化し、それが嘘から出たマコトとなり、実際に祟りが起こる。
「ちゃんと弔われて、成仏したんだ」と思えれば、僕らはちゃんと全員で共に前を向いて歩ける。
少なくとも、人間の小さな共同体単位では、そうなんだと思います。
だからこそ、世界中、どこの集団や部族であっても、ホモ・サピエンス、つまり物語を共有することで拡大してきた人間という生物の社会には、必ず弔いの儀式が存在する。
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現代は、急速に、思想も価値観も文化も変化をし、そして実際に「人間」であっても、社会的にも物理的にもカンタンに「過去の遺物」となり、死にゆく時代です。
だからこそ、ちゃんと弔うことも同時に大事になってくる。
もちろん、それで今日の「肯定と承認」のズレの問題が、すべて解決するわけではない。でも、この弔いの感覚を持つことは、今とても大事なことだと思う。
手を合わせて、死にゆく存在を弔い、安らかに成仏してもらって、死者となり先祖となって、いまを生きる人々の心の支えになってもらえるような存在に変わってもらうこと。
繰り返すけれど、さもないと、何よりも自分自身を殺すことになる。だって、それがいちばん合理的だから。
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この自分を殺すしかなくなる恐ろしさを味わいたければ、ぜひ『世界99』を読んでみることをオススメしたい。
ひとりの女性の一生を通じて、最初から最後まで、一切手を休めることなく、変わらない筆圧でもって、これでもかっ!というほどに、このディストピア感を描き続けてくれている。
ネタバレになるために詳しくは書きませんが、主人公の末路、自分自身を自らの手で弔う(弔わなければならなくなる)場面も、本当に印象的であり、象徴的です。
ぜひ興味がある方は小説を実際に読んでみてください。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/09/16 20:53