今朝、Xで以下の記事が話題になっていました。


その記事を見かけたとき、僕は「なるほど、たしかにそういうことなんだろうな」と思うのと同時に、なんとも言葉にしにくい違和感も抱いた。

というのも、最近SNSを見ていると、大人たちがマンガやコナン映画について語っているのを、本当によく見かけるからです。

カフェでも、SNSのタイムラインでも、そういう光景はもうまったく珍しくない。

大人がふつうにマンガを読み、アニメ映画を観て、それについて感想を言い合っている。

少し前ならどこか気恥ずかしさをまとっていたはずのものが、いまはすっかり日常の風景になりました。

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それ自体は、決して悪いことではないと思っています。むしろ文化的に豊かなことだと感じます。

大人が子ども向け作品に触れ、その面白さを言葉にし、誰かと共有できる社会は、かなり成熟しているとも言えそうです。

でも、客観的に見ていると、どうしても少し気になってしまうことがあります。

そこでは、作品の面白さだけが語られているわけではない気がするからです。

どこかで同時に、「自分はまだ老けていない」ということも確認されている。いや、確認されているというより、確認したいという欲望がにじんでいるように、僕には見えます。

いま何に反応しているか。どんな作品を観ているか。どの話題にちゃんと入っていけるか。そういうものが、その人の現在地を示す記号や目印になってしまっているのだと思う。

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この点、一昔前なら、若さというのはもっと外側にあったと思います。服装や髪型、持ち物など。そういうもので「まだ若い側にいる」ことを顕示していた。

でも今は違う。

若さの記号は、かなりはっきりと、言及するコンテンツのほうへ移っている。

SNSの時代になって、若さは外見で装うものから、SNS上での反応の速さや参照しているコンテンツによって示すものへと変わったのだと思います。

だから今、人は作品を語っているようでいて、往々にして、その作品に反応できる自分の「若さ」も同時に語っている。

つまりこれは、「精神的な若作り」でもあるのだと思う。

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ただ、ここで話を単純化だけは絶対したくないなと思います。

「精神の若作り」というと、どこか見栄っ張りで、未熟で、少しみっともないもののように聞こえるかもしれない。でも僕は、そこにある欲望の根っこまで全部を笑ってしまうのは違うと思っています。

なぜなら、精神が老けたくないという願いそのものは、かなりまっとうで、大切なものだからです。

感性が閉じていくこと。新しいものに反応できなくなること。子どもが夢中になっているものを、まったくわからないまま通り過ぎてしまうこと。

そういうものに対して、どこかで抵抗したいと思うのは、そんなにおかしなことではないはずです。

むしろ、人間にとってかなり深いところにある、自然な願望であり、祈りでもあると思う。

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で、ここで思い出すのが、松岡正剛がよく語っていた「ネオテニー」という概念です。

もともとは生物学の言葉で、「幼形成熟」とか「幼態持続」と訳される言葉。けれど松岡正剛は、それを人間や文化の問題にまで広げて考えるときに用いていました。

人間は完成しきらないからこそ、学び続けられる。固まりきらないからこそ、遊び続けられる。未完成だからこそ、環境に応じて変わり続けられるのだ、と。

つまりネオテニーとは、単なる子どもっぽさではない。

成熟してなお、開かれていること。完成しきらずに、変わり続けられること。

そういう人間の根源的なあり方のことでもあるわけです。

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この感覚は、日本文化のなかにもかなり深く流れているように思います。

たとえば、良寛和尚なんて非常にわかりやすい。

良寛というと、子どもたちと毬つきをして日が暮れるまで遊んでいる姿が、どこか理想的なものとして語られることが多いです。

多くの人が、そんな良寛の姿を、絵本や何かで一度は見聞きしたことがあるはず。

あの姿は、ただ「子どもみたいなおじいさんで、かわいい」という話ではないと思う。もっと深いところで、日本人はあそこにある成熟のかたちに惹かれているのだと思います。

それは、成熟しきった大人の論理だけで世界を閉じないということでもある。大人でありながら、子どもの側の驚きや遊びや余白に触れられること。

僕たち日本人が代々変わらずに、良寛に惹かれ続けるのは、そのやわらかさに、ある種の理想を見ているからなのだと思います。

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だから本来、「子ども向け作品をつくりたい」とか、「自分も子どもの気持ちがわかる大人でいたい」とか「感性を閉じたくない」と願うこと自体は、かなり大切で、善いものなのだと思います。

それは、まだ老けたくないという見栄だけでは決してない。

もっと本質的なところで、固まりきった大人になりたくないという願いでもある。それこそが、ネオテニー的な欲求と言ってもいいし、良寛的な理想への憧れと言ってもいい。

いずれにせよ、そこにはかなりまっとうなものがあるはずです。

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じゃあ真の問題は何かと言えば、その善い欲求が、いまSNS時代のコンテンツ市場のなかで、かなり別のかたちに変質しやすいことだと思います。

本来なら、世界に開かれていくはずの欲求が、「まだ精神は老けていない自分」を確認するための「記号」となってしまうこと。

子どもの世界に触れたいという願いが、「最近の作品をちゃんと追えている自分」を示すための材料になってしまうこと。

ここに、今回いちばん言葉にしたいねじれがあります。

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たとえば、大人がコナン映画を観ること自体は、全然悪いことではない。

でもそれが、作品を通して子どもの側の時間や驚きに触れる経験ではなく、「この話題に入っていける自分」「まだ子ども心を忘れていない自分」を確認するための行為になっていくとしたら、話は少し変わってきます。

マンガでも同じだと思う。大人が読むこと自体は、もちろん自由だし、豊かでもある。

でも、そこで読まれているものが、実は「若者文化」ではなく、大人たちの不安や願望にぴったり合わせて設計されたものであり、それを読むことが「まだ老けていない自分」の証明として機能するようになると、やはり何かがねじれてくる。

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しかも厄介なのは、ここに誰か明確な「悪者」がいるわけではないことなんです。

コンテンツをつくる側だって、売上や発行部数などを求めれば自然とそうなるし、そうならざるを得ない。市場競争で勝つことは、売上や閲覧数で優位に立つことでもあるわけですから。

だとすれば、可処分所得のある大人たちが大きな市場で、SNSで話題になりやすいものが強くて、大人も気持ちよく乗れる作品のほうが広がりやすいのは当然です。

そして自然と、子ども向け作品でありながら、大人の自己確認にも効くものが強くなるのは必然でもあります。

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だから、作品そのもの以上に、「それに反応できる自分」を消費することを促すようになるし、そんな作品こそが無意識にドンドンつくられていく。

つまりこれは、邪悪な誰かが大人を騙しているという単純な話ではない。

人間にとってかなり深いところにある善い欲求と、市場の合理性が、あまりにも見事に合致し噛み合いすぎてしまった結果なのだと思います。

資本主義の市場で酒をつくっていれば、誰が悪意をもって仕掛けたわけでもなく、「スト缶」のような危うい商品がアルコール市場を席巻してしまうのと、すごく似ています。

だからこそ、この構造は強い。

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そして、強ければ強いほど、別のジレンマも生まれてきます。

それは、本当の子どもたちが置いてけぼりになってしまうということです。

ここが、僕にとってはいちばん気になる点であり、いまかなり見過ごされているなあと思う点でもある。

大人が子ども向け作品に触れること自体は、悪くない。

でも、大人の精神の若作りの需要が強くなりすぎると、子ども向け文化の中心に、子ども自身ではなく、大人の自己確認が居座るようになる。

作品は「子ども向けに見える」けれど、ほんとうは大人がいちばん気持ちよくなれるように設計されてしまっている。子どものための文化であるはずなのに、SNSで語る大人たちのほうが主役になっていく。

子ども向け作品を通して、大人たちが自分の若さを確認しあう場所ができあがってしまう。

そうなると、本来そこにいたはずの子どもたちは、背景に退いていく。これはほんとうにかなり皮肉なことだと思います。

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子ども心を失いたくない。子どもの世界をわかりたい。固まりきった大人になりたくない。

その願い自体は、とても大切なものだったはずなのに、その願いが市場で増幅され、商品化されればされるほど、現実の子どもたちは見えにくくなっていく。

もちろん、お金を出すのが親や祖父母である以上、購買者の満足を優先するのは市場として自然な動きかもしれない。

でもだからこそそれは、子ども向け文化の本来の重心が、子ども自身から離れてしまうことを意味する。そこに、この構造のいちばん深い問題があると思います。

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本当のネオテニーとは「まだ若く見せたい」ということではなかったはずです。

良寛的な理想も、「大人が子どもの側の記号を身につけること」ではなかったはず。

そうではなく、固まりきらずに他者に開かれていること。

自分の成熟を絶対化せず、子どもの時間や遊びや驚きにちゃんと触れられること。世界に対して、まだ学び直せる存在であるということ。

つまり、自己演出ではなく、世界との関係の持ち方の問題だったはずです。

けれど今は、それがとても商品にしやすいかたちに変わってしまった。

そして、売れれば勝ちという、勝てば官軍のような状態にもなっている。このねじれは、かなり現代的だなあと思います。

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いまコンテンツ市場が売っているのは、作品そのものだけではない。

「まだ精神は老けていない」と感じられる一瞬の快楽、その愉悦みたいなものです。

その感覚を求めること自体は、きっと誰にも責められない。でも、その善い欲求が商品になればなるほど、本来そこにいたはずの子どもたちが、置いてけぼりになってしまう。

そのジレンマこそ、現代の世のなかで丁寧に言葉にしておきたいことだなあと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。