最近、Wasei Salonのコミュニティラジオの中で「今週の一曲」みたいなコーナーをやったらどうだろう、とふと思いました。

メンバーのみなさんがSunoなどAIで生成した楽曲の中から一曲を選んで、番組中に流す。そんな企画です。

正直に言えば、これが当たるかどうかはまったくわからない。むしろ、当たるも八卦当たらぬも八卦というか、少し怖いもの見たさで、短期間だけ実験してみたい、くらいの気持ちのほうが近いです。

そもそも、AI楽曲というものは、文脈なしに単体で流れてきたら、やはりどこか味気ないなといつも思います。

単純にすごいなとは思うし、完成度も高いとは感じる。でも、何度も聴きたくなるかといえば、そうでもない。何かが圧倒的にもの足りない。

最近はずっと、その「何か」が何なのか気になっていました。

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ただ一方で、コミュニティの中でなら話は変わるかもしれない、とも思ったのです。

たとえば、「この人が最近こんなことを考えていて、それを曲にしてみた」とか、「この気分をうまく言葉にできなかったから、試しに音にしてみた」とか、そういう背景や文脈、コンテクストごと共有されるなら、AIでつくった曲もただの生成物ではなくなる気がしたんですよね。

つまり、曲そのものを聴くというより、その人自身の物語を聴くことになる。

そう考えていたら、これは単なる小さな企画案ではなくて、AIのかなり大事な使い方の話なのではないか、と思うようにもなりました。

今日の本題も、まさにこのあたりからになります。

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この点、AIの話になると、どうしてもすぐに「人間の仕事は奪われるのか」とか、「でも最後は人間らしさが残る」とか、そういう大きな話になりがちです。

もちろんそれも大切な論点なのだけれど、実際の現場で起きていることは、そんなに単純な二択ではないように思います。

僕が最近しっくりきているのは、AIは人間の代わりになるかどうか、というより共同体の中でどんなふうに置かれるのか、その置き方のほうがよっぽど大切だということです。

もっと言えば、AIのいい使い方のひとつは、まだ存在していない構成員のための「仮席」をつくることなのではないか、と最近思っています。

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正直、最初は「代用」という言葉も考えました。

まだ仲間になっていないポジションを、一時的にAIで埋めておく、みたいなイメージです。

たとえば、またマンガ「ワンピース」の話になってしまうのだけれど、音楽家のブルックがまだ仲間にいないなら、そのあいだだけ生成AIで音楽をつくってもらう。でも、本物の音楽家が仲間になったら、その席は当然その生身の人間に渡される。そういうイメージです。

ただ、考えていくうちに、「代用」という言葉だと少し違うなと思うようにもなりました。

どうしても、代用と言ってしまうと、なんだか本物の代わりに間に合わせを置いている感じがしてしまう。でも、僕が考えているのは、そういうことではない。

むしろ、本来なら誰かが座るはずの席がちゃんとそこにあって、いまはまだ誰もいないから、一時的にAIが座っている、そういう感じに近いなと。

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つまり、AIは、完成された代替物ではなく、共同体の中にある「まだ人間に開かれている席」を、仮で見えるようにする存在なのではないか、ということです。

この感覚は、僕の中では、以前にご紹介した、内田樹さんの「怒髪天を衝く」の話にもどこかつながっています。


なぜ子どもが「怒髪天を衝く」みたいな難しい慣用句を覚える必要があるのか。最初はそんな感覚なんて知らないからです。髪が逆立つほど怒る、なんていう実感は、まだ人生の中にないかもしれない。

でも先にその言葉を知っておくことで、いつか本当にそういう怒りに出会ったとき、「ああ、これがまさしくそうなのか」とわかる瞬間がやってくる。

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この話は、本当にいつもおもしろいと思います。

人間は往々にして、経験の前に、先に型や言葉、その枠だけを受け取る。そしてその型があるからこそ、あとからやってくる感情や経験が、ただの出来事ではなく、輪郭を持った「私の実感」になる。

共同体も、きっとそれに近いのではないかと思うのです。

つまり、「こういう役割があるよね」「こういう人がいたら、この場はもっと豊かになるよね」「こういう表現が、この共同体の中ではありうるよね」という型や印象や席を、先にうっすら置いておく。

そうすると、まだ来ていない人や、まだ自分の才能に気づいていない人が、あとからそこに入ってきやすくなる。

何もないところに、いきなり人は入りにくい。でも、なぜかすでにそこに席だけは見えている。すると、「あ、自分はここにいていいのかもしれない」と思えることがある。

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共同体に必要なのは、最初から完成されたメンバーばかりではないのだと思います。

むしろ大切なのは、半人前の人や、趣味で好きなことをやっている人や、まだ何者でもない人が、少しずつ役割を引き受けながら、場を通じて育っていけることのほうです。

そのときAIが果たせる役割は、意外と大きいんじゃないかと。

たとえば、最初はうまく曲をつくれない人でも、AIの力を借りれば、ひとまず一曲を形にすることはできるかもしれない。

最初はAI込みの作品だったとしても、その人が何をつくりたいのか、何を感じているのか、どういう方向に惹かれているのかは、少しずつ見えてくる。

そうやって関わりの中で輪郭が立ち上がり、ある日ふと、AIの補助なしでもその人らしい表現が出てくる。そんなことは、これからいくらでも起きる気がしています。

これは、かなり希望のある話だと思うのです。

実力がついてから参加するのではなく、場に参加しながら実力が育っていく。AIは、その最初のハードルを少し下げてくれる。そういう方向性なら、AIはかなり健全に機能する気がします。

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そして最近、さらに大事だと思うようになったのは、AIは「まだ来ていない人」のためだけではなく、「いったん離れた人」が戻ってこられる席を守るためにも使えるのではないか、ということです。

これもかなり大切な論点です。

共同体の中には、ずっと同じ温度で居続けられる人ばかりではない。育児や介護、仕事や体調、あるいは単純に人生の流れの中で、一度距離を取ることは誰にでもあります。

むしろ、そういうことが起きない共同体のほうが不自然です。

でも多くの場では、その不在がそのまま喪失になってしまうし、共同体の存続が脅かされるかもしれない。また、仮に共同体は存続できても、一度抜けたら、その役割は別の誰かや別の仕組みに置き換えられてしまい、本人が戻ってきたくても戻れない。

以前いたはずの席が、気づいたらなくなっている。これはかなりつらいことだと思います。

だからこそ、ここでもAIの使い方が問われる。

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もしAIが、その人が不在のあいだだけ役割の火を消さずに守ってくれる存在になれるなら、それは単なる代替ではなくて、留守番役になります。

仕事を奪うのではなく、席を預かっておくイメージ。

文化の流れを絶やさないようにしながら、でも同時に「ここはいつでも戻ってきていい場所ですよ」と言える状態を保つ。

そういう使い方ができたら、共同体はずっと継続可能性が高くなると思うのです。というか、現代的な存続の問題を見事に解決できるなあと。

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で、これは、まだ来ていない人のための仮席とも、実は同じ構造をしています。

まだ来ていない人のためにも、いま離れている人のためにも、共同体は今いる人だけで閉じてしまってはいけない。

つねに少し広めの円卓を持っていて、その中に余白の席があること。それが大事なのだと思います。

AIを使うことで、その余白を消して円を小さくするのではなく、むしろ円の大きさは保ち続ける。人が入ってこられることを、共同体の側が忘れない。そこにこそ希望がある気がしています。

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もちろん、ここに危うさがないわけではありません。

というより、この話のいちばん危ないところは、仮席として置いていたものが、そのまま本席になってしまうことであるのは、明白です。

最初は「人が来るまでのあいだだけ」と思っていたのに、便利だし、安いし、早いから、いつのまにか「もうAIで十分だよね」になってしまう。

そうなった瞬間に、空白を可視化するはずだった仕組みが、空白そのものを消してしまう。

すると、まだ来ていない人も、戻ってきたい人も、半人前のまま挑戦したい人も、入る場所、その隙間がなくなる。共同体は効率的になるかもしれないけれど、そのぶんだけ閉じてしまう。ここは本当に気をつけないといけないところだと思っています。

AIは、まさに共同体にとって、毒にも薬にもなる。

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だから大事なのは、AIを使うことそのものではなくて、「この席は人間に開かれている」という約束を、共同体の側が持ち続けることなのだと思います。

AIは、穴を埋めるために置くのではない。

人がいつでも入ってこられるように、その穴の輪郭を守るために置く。ここの認識が失われたら、この話は全部壊れてしまう。

でも逆に言えば、その前提が共有されているなら、AIはかなりいい働きをするはずです。

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人間の代わりではなく、つくりたい共同体の姿を、擬似的に少し先につくってみる。

その姿をちゃんと提示しながら、でも常に生身の人間を迎える余白を残しておく。AIによって共同体を完成させるのではなく、共同体の未来像を仮で保ち続ける。僕はそういう使い方に、かなり可能性を感じています。

マリオカートのコンピューターみたいなもんですね。いつでもそのプレイヤー全員が生身の人間に戻れる余白。

で、これはたぶん、オンラインコミュニティだけの話ではありません。

過疎の地域でも、ローカルの現場でも、本当に失われているのは単なる人手だけではなく、共同体の全体像なのだと思います。

どんな役割が必要で、どんな未来がありうるのか。その輪郭が見えなくなっているから、人も入りにくくなるし、その過疎地域に残る理由も見えにくくなる。

だから将来的に、フィジカルAIやロボットが地域に入ってくるときも、ただの労働力の代替として考えるのではなく、共同体の中にまだ人間が入ってこられる余白をどう保つか、という発想で考えられたら、おもしろいことが起きることは間違いない。

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もちろん、いきなりそんな大きな話をしても仕方ないので、まずはオンラインの小さな場からやってみたい。

コミュニティラジオの中で、AIでつくった「今週の一曲」を流してみる。それがうまくいくかどうかはわからない。

でも、そこで見たいのは、AI楽曲のクオリティではなくて、共同体の中に、まだ来ていない人の席や、いま不在の人が戻ってこられる余白や、半人前の人が挑戦できる入口が、ちゃんと見えるようになるかどうかなんです。

AIは人間の代わりではなく、まだ見ぬ人を迎えるための仮の身体になれるのではないか。そんなことを考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。