最近、Xを見ていると、Claude Codeの活用術が本当にたくさん流れてきます。

どれも便利そうに見えますし、実際かなり便利なのだと思う。僕自身も普通に使っているし、とっても助かってもいる。

ただ、そんな投稿を眺めながら、なぜか僕は別のものを思い出してしまいました。

それが、100均やニトリの収納グッズ活用術です。

どこが似ているの?って思われてしまうかもしれないけれど、なんだかその「本質じゃない感じ」と、でも今の生活をガラッと変えてくれそうな感じが、とてもよく似ているなあと思います。

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収納を増やす工夫は、たしかに役に立つ。部屋は片付くし、見た目も整う。生活が少し快適になるわけですよね。

でも、「その前に、そもそもこれってほんとうに必要?そんなに大量に持つ必要あるんだっけ?」と断捨離するほうが圧倒的に大事。

収納を工夫すること自体は悪くないと思っています。でも、それが時代に合わない形で「持ちすぎていること」を前提にしているなら、話は少し変わってくるはずです。

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最近のAI活用術を見ていると、まさにそれと同じ感覚になる。

あれらも昭和の家のなかで必要だった観点としての収納術みたいなものなのかもしれないなあと。

でも本来は、そんな昭和の家と、その昭和の一般的な持ち物ではなくて、平成や令和の生活スタイルに合わせた家をまず建て直し、そちらに最適化した令和のライフスタイルに必要な持ち物を揃えたほうがいい。

つまり順序が完全に逆だなと思います。

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収納でピンとこなければ、ファストファッションとかで、考えてみてもいいかもしれない。

従来的な価値観において「これだけのものが必要だ」と思われている服装を、時代が変わろうとしているなかでも、持ち続ける意味なんてまったくない。

従来必要だった衣類を安く大量に手に入れることができる、多くの人がソレに熱狂することはとてもよく理解するけれど、でもそれが本質じゃないですよね。

ファストファッションが出てきてしまった以上、もう人々の洋服に対する価値観や優位性自体がガラッと変わってしまい、もうそんなに沢山いらないんだってことのほうが、圧倒的に重要な視点ですし、そのようなパラダイムシフトの観点を持つことのほうが大切だったはずです。

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僕らはそれを2010年代の社会変化のなかで痛いほど学んだはずなのに、AIの話になると、どうしても「いま自分がやっている仕事を、どうやって楽にするか?」という方向ばかりに流れてしまいやすいなあと。

でも、それでもなぜ収納術的になっていくのかといえば、それこそがSNSに集まる人達のインサイトというか具体的なユーザーペインだからでもあるわけです。

何を解消してあげれば喜ぶか、群がるかによって、SNSで氾濫する情報が規定されてしまっている。

でもそれっていうのは、AIが登場する以前の働き方におけるタスクに役立つ話で、それを解消したところで、もうほとんど価値はない。

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これは、江戸時代に「鋼鉄の馬」をつくって、これまで以上に馬を速く走らせようとすることや、人の目には見えないスピードの「超高速のそろばん」を使おうとすることにとてもよく似ている。

そして、実際に江戸時代にそれらを持っていれば、江戸市民たちに群がられたことは間違いない。

でも一方で、スマホとか、自動運転の車とかを持っていっても「なにそれ、意味がわからない」と言われるに決まっています。

未来を知っている僕らからしたら、その食いつき方のズレは呆れるどころか少し滑稽で、落語をみているような気分にすらなるはず。

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それとまったく同じことが今起きている。

たとえば、議事録を速くつくる。スライドを速くつくる。メールの返信を速くする。調べものを一瞬で終わらせる。

どれも現代の仕事の中では正義だし、どれも圧倒的に正しい優秀さとされている。

でも、会議が終わったあと、ほとんど誰も読み返さない議事録をきれいに整えても意味はないし、5分で口頭共有すれば済むことのために、共有用のスライドを30分かけてつくる。念のため、のメールを何往復もさせるとか愚の骨頂。

そういう仕事を、AIで少しだけ速くすることに、一体何の意味があるのか。

むしろ、自分で自分の洋服の裾を踏みつけて、前に進むことを妨げていることにほかならないよなあと思ってしまいます。

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つまり、AIシフトで本当に必要なのは、手元の仕事を全部持ったまま、その上にAIを積み増して生産性を上げることでは決してない。

むしろ、この変化によって、もう何を持ち続けなくていいのかを見極めることのほうなのではないかと思います。

この視点がまさに「断捨離」ですし、エッセンシャル思考そのもでもある。

でも捨てるのは怖いし、そこに向き合うのが怖いからこそ、多くのひとは今の目の前にある仕事に盲目的にしがみつこうとしてしまう。自分は前進していると強く信じたいから。

とはいえ、その仕事を心から愛しているわけでもない。常に面倒くさいと感じているし、できればやりたくないようなタイプのものでもある。

だからこそ、なおさら厄介なんですよね。

好きでもないのに、手放すほうが怖いから、余計に抱え込んでそれを効率化しようとしてしまう。

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もちろん、これまでも移行期には「古い仕組みを少しだけ改良する」ことでうまくいく仕事はたくさんあったと思います。

でも今回は、その猶予があまりにも短いこと自体も、大きなポイントだと思います。

なんなら、AI時代の恐ろしさは、まさにここにあると言っても過言ではない。

3年単位ぐらいですべてが過去のものとなり、リセットされてしまうこと。

便利な使い方が見つかっても、それはすぐに共有され、模倣され、誰もが使えるようになる。そして、あっという間にそれが「標準」や「当たり前」になっていく。

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一瞬は、他者との差別化において有効でも、その優位はすぐに吸収され、標準化され、陳腐化する。

問題は、移行期における「中間的な工夫」が無意味なことではなくて、その工夫が優位でいられる時間が、ほんとうに一瞬で過ぎ去ってしまうことの方にある。

そんなことをしていたら、無限にリスキリングし続けなければならない。

で、そんなことを考えているときに、この流れを象徴する話として、ジャック・ドーシーが会議でのスライド発表をやめ、動くプロトタイプを持ち込むようにした、という話がTwitterに流れてきました。

https://x.com/iwashi86/status/2040743072343167325 

こちらも、非常に象徴的だなあと思いました。まさにエッセンシャル思考そのもの。

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さて、こうして見ていくと、価値が落ちていくものと、逆に残るものは、かなりはっきりしてくると思います。

今、仕事だとみなされているものから、少しずつ価値が剥がれていく。その代わりに残るのは、何をもうやらなくていいのかを見極める力だと思う。

どこにだけ手間をかけるのか、何をあえて自分の側に残すのか。

それがほんとうの意味で、いま問われているなと僕は思うのです。

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だからこそ必要なのは、次の時代を見据えたうえで、勇気を持った断捨離である、というのが今日の僕の結論です。

今の仕事に対して、これまでの自分を支えて、ここまで連れてきてくれたこと自体に感謝をしつつ、そういったものを見つめ直し、次の時代にも残したい役割に、自分の時間とエネルギーを置き直す、ベッドし直す。

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では、その先に一体何を残していくのか。

それは本当に、人それぞれだと思います。ローカルの暮らしだというひともいれば、自然との共生、または子育てや家族の時間だという人もいるかもしれない。

ただ、ここまで考えてくると、僕の中ではかなりはっきりしてきて、これだけAIが発展し、その先のフィジカルAIもある程度予測できるようになってくると、「良い本を読んで、素晴らしい映画を観て、散歩しながらときどき旅をして、あとは大好きな人たちと、そこで得られた知見や感情の起伏や揺れについて、人間同士で豊かな対話や感想会をする以外に、人間に他にやることある?」って思っちゃいます。

人間が決めるのではなく、決めないことを重視する姿勢。

どんどん決めていくのではなく、人間らしくちゃんと揺らぎ続けることができる空間をつくっていきたい。

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良い本を読むことは、知識を増やすことではない。自分がうまく言葉にできなかった感情や考え方に、丁寧に向き合う時間をつくること。

映画を観ることも同じで、何かの正解を受け取るというより、自分の感じ方そのものが少し変わってしまう。

散歩しながら考えることも、ただの気分転換ではない。すぐには役に立たない揺れを、自分の中で身体的な感覚を伴いながら、問い続けるための時間だと思う。

そして対話は、その揺れ自体を誰かと共有し、簡単には結論にしてしまわないための営みにつながる。

このような一連の過程のなかにこそ、人間の生きる喜びや幸福があることはもう間違いないと思います。

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逆に、AIはどんどん決めてくれるし、整理もするし、最適化もしてくれる。

役所仕事のように粛々と、ほんとうにありとあらゆることを粛々とこなしてくれる。僕らがもはやライフライン、電気水道ガスやネットインフラを一切日常的に心配しないように、です。

それと同じようなことが、日常の暮らしの側で、どんどん起きてくる。

だからこそ人間の側には、すぐには決めきらないことや、うまく整理できないまま持っておくことの価値が、これからますます大きくなっていくことも必定です。

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これまでもそうですが、これからAI時代に、自分がつくりたいものは、まますます今のWasei Salonのような場ですし、人々の役に立つような時代に突入していくだろうなあと予感しています。

最適な答えをドンドン出していく場所ではなく、人間らしく世界の謎に驚き、好奇心を抱き、センス・オブ・ワンダーを大切にしながら、生産性の議論に煽られずに、揺らぎ続けることができる場所。

AI時代に本当に取り組むべきは、たぶんそういう場づくりなのだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。