河合隼雄さんの口癖が「わかりませんなあ」だったというのは、わりと有名な話です。
とはいえ、臨床心理学者として、カウンセリングをする立場のひとが、「わかりませんなあ」という言葉を頻発していたというのは、結構意外な話だなと感じられる方も多いはず。
一般的には、先生はやってくるクライアントに対して静かに「わかりますよ」という方が寄り添っているほうが、なんだかそれっぽく感じられるはずだからです。
つまり、「わかりませんなあ」と言われてしまうと、普通だったら「拒否された、否定された、批判された」みたいなことを無意識のうちに思いがち。
だから、誰もがシャッターを降ろされたと思うはずなんだけれど、河合隼雄さんの場合は、この「わかりませんなあ」という言葉が逆に包摂のように語られていたというのは、今とっても大切な視点だなと思うのです。
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これは、先日もご紹介していた武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』という本の中でも語られていた話です。
とても丁寧な説明だったので、以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。
谷川俊太郎が「三つの言葉」と題した(『心の処方箋』の)文庫版解説を「河合さんがよく口にされる言葉が三つある。ひとつは『分かりませんなあ』、もうひとつは『難しいですなあ』、そして三つ目は『感激しました』である」と切り出す。河合さんならば何だって答えてくれそうなのに、いざ聞いてみると「分かりませんなあ」「難しいですなあ」と返ってくる。それでも「がっくりくるかというと、それがそうでもないのだから妙だ」。それはなぜなのか。「河合さんの『分かりませんなあ』は、終点ではない。まだ先があると思わせる『分からない』なのだ」「つまり河合さんと私は『分からないこと』において気持ちが通じる」とある。
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どうしても僕らは、一般的な「わかりませんなあ」から、否定的なニュアンスを感じ取ってしまうからこそ、すぐに相手に対して「わかる!」という共感に満ちた、明らかに肯定的な言葉を投げかけてしまう。
それは「私はあなたの味方ですよ、このまま対話を続けましょう」という合図や信号のようにして、とてもポジティブな意味合いとして、用いられているわけですよね。つまり、そこにあるのは圧倒的な優しさです。
そうじゃないと、表面上の言葉のやりとりのうえで、相手を困らせてしまうわけですからね。
そして、そんなやり取りの結果として、相手に対して「わかる!」と言いやすい話を投げかけることが、マナーや空気、善い行いのようになっていってしまう。
それぐらい人間関係を持続させることの強迫観念みたいなものは、人間の中に根深く住み着いているんだなあと思わされます。
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でも、当然なんですが、世の中は決してそんな簡単にわかり合えるというものではない。
ひととひととは、「わかりあえない」ところがあるということを、はっきりと分かっていること、それが本当の意味での専門家でありプロだということだと思います。
言い換えると、「わかりあえない=排除」とすぐに捉え合ってしまうから、無理やり「わかる!」と言って、自分の直感的な感覚とはズレることを言わざるを得なくなる状況に陥ってしまっているわけですよね。それが素人であり、僕ら一般人の考え方。
結果的に、どんどんそこに違和感や「おり」ののようなものが溜まっていくことも、必然だと思います。
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実際、SNS上で世間の意見がぶつかり合い、日に日に明らかになっていることというのは、人間同士はわからないことのほうが圧倒的に多い、ということが素人目線の僕らでも鮮明になってきているわけですから。
だからこそ、「わかりませんなあ」から、ゆえに「一緒にわかろうと努力していきたいからそのまま続けてください、ゆっくりで構わないから」というニュアンスを、どれだけ相手との間に構築していくことができるかが、これからは非常に大切だと思うんですよね。
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あとは、本当に避けるべきことは包摂と排除における「排除」のほうであって、「わからない=排除」ではないというのは、すでに過去に何度もお伝えしてきたとおりです。
これは言い換えると、「わかる!」が「包摂の中の肯定」だとしたら、「包摂の中の否定」の語彙というか態度や姿勢、表現力が、現代人に圧倒的に足りないんだろうなあと思う。
河合隼雄さんの「わかりませんなあ」というのは、その中でも本当に素晴らしい「包摂の中の否定」的な言語的態度ということなんだと思います。
もっともっと、このあたりの力量みたいなものを蓄えていきたいなあと僕自身は思っています。
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安易な同意や賛同を通して、相手の表面的なご機嫌取りをしようとせずに、開かれた状態、相手にそのまま話をしていいだと思ってもらえるような「わからなさ」をしっかりと伝えておくこと。
いわゆるビジネス書やお気持ち系の本に書かれているような、相手を傷つけないお祈りメール文体のような「排除の中の肯定」の語彙ばかり増やしても、本当に仕方ないんだろうなあと思ってしまいます。
そのようなことがマナーやコミュニケーション術のように語られるけれど、そうするとより一層泥沼にハマっていってしまうわけですから。
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ちなみに、これは本筋からずれてしまいますが、この本を読んでいて、まさに僕が「わからないなあ」と思ったのは、とある女性芸人さんが「自虐する時代は終わった」と述べ、「自虐には、他者を馬鹿にする気持ちが含まれている」と考えていると語られてありました。
彼女は自虐することは、その物差しを自分が持っていることだと述べ「全ての人は平等」と言いながら自虐が許されるのは矛盾していると感じていると武田砂鉄さんのラジオの中で語っていたと書かれてあったんですよね。
あえてコンプレックスを武器に変えることについても「それが武器にさえならなくなるのがベストだ」と述べていたと書かれてあり、つまり、コンプレックスを利用すること自体が自虐と同じ構造であり、差別の視点が根底にあるため、慎重に付き合い、段階的に自虐を減らしていくべきだと考えているそうです。
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このお話自体、言いたいことは本当にとてもよく理解できるし一面的には本当にその通りなんだけれども、このような主張を最近になってよく見かけるようになってきて、僕は多少の違和感を覚えてしまいます。
「自虐的なものさしとして、その尺度があるからダメなんだ、それ自体を変えなければならない」というロジックで説明されているのですが、とはいえ、人間、感じることは直感的に感じるわけですよね。
感じてしまう情動みたいなものには、ひとは決して逆らえない。そこにある美的感覚のようなものは純粋経験のようなもので、甘いものを甘いと感じて、辛いものを辛いと感じて、苦いものを苦いと感じることに近い。
で、感じること自体は一向に構わないと僕は思うのです。それをそのまま「差別する」や「侮蔑する」ことにつなげることが違うと思う。
情動は人間の直感的なものであり、本当に間違っているのは、それを他者を侮蔑するための手段や理由、根拠としてダイレクトに用いてしまうことなはずであって、その情動の解釈や評価は、いくらでも変えていくことはできる。
その解釈は本当に無限大なわけですよね。
そして、その時代の倫理や道徳にとても強く影響を受ける部分でもあるかと思います。言い換えると、僕らの認識次第で、いくらでも変更可能なもの。
ここもやっぱり、「包摂」と「排除」の二元論に似ているような構造となってしまっていて「包摂の中の否定」というような感覚が、すっぽりと抜け落ちてしまっているなあと思ってしまいます。
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今のリベラル的な価値観というのは往々にして「わかりあえなさ」によってぶつかるから、その相手のなかにある尺度の方にまで、無理やり直接手を突っ込んで変えてしまおうとする。
ものさし自体を、変えようとしてしまうわけですよね。
結果として、全く違うものを「同じ」と言い放ち、まった「同じ」ものを違う言い放つ。そういうふうに評価しないと、あいつは差別主義者だ、他人を侮蔑していると騒ぎ立てるわけです。
でも、その感覚のほうこそが問題だと、僕は思うんですよね。
僕はそうじゃなくて、河合隼雄さんの「わかりませんなあ」のように、「包摂の中の否定」の態度を増やしていくこと。
「わからない」という直感的で正直な態度、それでもそれをネガティブなまま表現せずに、もっと大きな視点で開かれた態度で分かち合い、解釈可能性のようなものを残すこと。
その時に必要なのは、いつも書いているように、相手に対する敬意と礼儀だと思います。
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決して、自分の美的感覚や直感的な情動を歪めることではない。言葉やそのスタンス、その態度や敬意、礼儀の再構築していくことだと思う。
「言うは易く、行うは難し」だとは十二分に理解はしつつ、この感覚を常に忘れずに本当に大事なことは何か、それを冷静に判断していきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。