虚構性こそが、資本主義の本質だという話は、本当にそのとおりだなあと思います。

イーロン・マスクなどがその虚構性「ハックする」姿は、今の社会構造を正しく見定めた上で、最善の策を選び取るうえで何ひとつ間違っていない。

ものすごく時代感を掴んでいるなと思わされる。

だからこそ僕は「資本主義は虚構で動いてない」なんて決して思わないし、その虚構性も認めます。そこに異論はない。

ただ、それをわかったうえでやらない矜持もあるよね、とも思うのです。問われているのは、その割り切らない胆力のほうだと僕は思います。

今日はそんな話です。

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この点、最近よく思うのは、ミームトークン(ミームコイン)は、マルセル・デュシャンの「泉」に似ているなあと思います。

そして、実際に、ミームトークンは、ものすごくアート的なんですよね。

僕もあまり詳しくはないジャンルなので、一般教養レベルですが、当時、デュシャンの「泉」が評価された理由は、その革新的なコンセプトにあったそう。

当時のアート界においては、技術や美しさが重視されていたらしいです。「泉」は既製品の便器をアートとして提示することで、「アートとは何か」という根本的な問いを投げかけたわけです。

もちろん、「泉」も当時、多くの批判を受けたそうです。

既製品をアートとして発表することに対する反発がまず大きかった。そして、「これはアートではなく、ただの便器だ」という批判やアートの価値を貶める行為だとする声もあったそうです。

しかし、それでもデュシャンの目的は、アートの概念を問い直すことにあって、ものすごく作為的にこの作品を展示したわけですよね。

そして、彼はアートの歴史的系譜を巧みに利用をして、その中に新しい視点を持ち込むことに成功したわけです。

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で、ここで僕は、デュシャンの「泉」つまり便器が、アートじゃないと言ってるわけじゃない。

「便器がアートでしょ」と言われると、多くの人は「便器はアートじゃない!」と反発してしまうと思います。

だからこそ、肯定派の人々は「でも、よく見てみろ、これに値段がついているだろ、これだけ世間を騒がせただろ」という話になる。そして教科書にも載っている、と。

それはものすごく本質をついていることも認めます。だから紛れもなくそれはアートなんです。

でも、僕が言いたいのは「便器をアートにしたかったんだっけ?」という純粋な問いなんですよね。

それがアート的価値があることも重々理解したうえで、アートとは本来何かということを考えたときに、本当にそこに自らが見出したかった「真善美」みたいなアート性みたいなものは宿っているのか、と。

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ここが、いつも食い違うよなあと僕は思っています。

そして、今のミームトークンみたいなものに対しても、まったく同じことが言える。

つまりそれはものすごく、現代の資本主義に対して理にかなっていて、既存の金融の世界に対しての揶揄であり、アイロニー的なこと。

それはまた、お金にもなるし、ともすればものすごくパンクな行動に見える。でも、それって本当に求めている世界へとつながるんですか、という話なんです。

作りたかったこと、やりたかったことっていうのは「便器に高い金額をつけて売ることだったんですか」ということでもある。

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それはものすごく新鮮に映るし、これまでにはなかった斬新なアイディアだから「自由」の象徴のようにも見えてしまう。

でも、それってカウンターカルチャーみたいな話であって、結局は前の歴史の系譜の上に置くときに、一体何が一番目立つのか、相手のこれまでのロジックをどう崩して揺さぶりをかけることができるのかという論破的な視点であって、それは全然自由じゃない。

むしろ過去の系譜に縛られていて「不自由」ではないかと、僕なんかは考えてしまいます。

本来は、もっともっと自分が作りたかった世界観があったはずで、そっちにもっと忠実になりませんかと僕は思ってしまうんですよね。

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たとえばこれは2010年代、ファッション業界で起きたハイブランドの「ロゴもの」ブームなんかもそうです。

ハイブランドのファッションなんて、初戦は有閑階級の見世物、それは本当にその通りで、だからSNS、特にInstagramのようなものが流行れば、すぐに見分けがつくロゴものが流行るに決まっています。

それを「ファッションじゃない!」っていうのは欺瞞です。むしろ驚くほどのファッションです。

だから、ハイブランドはこぞってブランドロゴがデカデカと入っているアイテムを作り続けてた。わざわざ、自分たちのロゴのデザインを、他ブランドと似たようなデザインに変更してまで、です。

当時、売上を立てたければ、それこそが最善策だったんでしょうね。

でも、それで一体何が起きたのか。まともなユーザーが、ことごとく離れていったわけです。

まともな人ほどロゴものに走らなかったクワイエット・ラグジュアリーに流れたり、若い人を中心に古着を求めたりするようになって、より一層ファッション市場からは人が離れていってしまったわけです。

そんなものを見せびらかしている人間に、まともな人間がいなかったのだから、当然です。

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また、今日のこのような話は資本主義の最先端のハックをしている人たちの一部の話じゃないと思っています。

今、ありとあらゆる分野において似たようなことが起き始めているなと思っています。だから僕は大きな関心を持ちながら眺めている。

たとえば政治、特に選挙の世界なんかでもそうですよね。「票が取れたから、議員だろ」というようなYouTube出身の色物政治家の物言いは、これからますます増えるでしょう。

そして、それは何一つ間違っていない。代表民主制において、有権者から投票数をより多く獲得した者が代表者です。

だから、その当選した権利を剥奪するのはどう考えても間違っていますし、公正な選挙で当選したなら、その人物が民意の代表者です。

でも、じゃあ「当選すれば、どんな手段を用いても良いか」というと「そうじゃないだろう」と僕は思うんです。

なまじ賢いと、そういう既存の仕組みをハックして、数字獲得することが一番賢い振る舞い、正当なことをやっているように思えてしまう。

昨日もご紹介した「クリティカルビジネス」のような概念なんかも、まさにそうだと思います。

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「世の中は虚構であって共同幻想さえつくれればいい、そのムーブメントをつくったもん勝ちだ」という話になれば、最初から何をやったっていいだろう、という帰結になります。

そうすると、トランプ現象のようなものだって、全面的に肯定するしかなくなる。

で、さらにより現状に合わせたハックをした人間のほうが賢いし、偉いし、階級的にも大金を稼いでいるから勝っているんだという指標が、世の中に蔓延していくことになる。

そうすると、世の中は一体どうなるのか。

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まともな若い人たちが、ついてこなくなるのだと思います。結局、次の世代に届かなくなる、刺さらなくなる。

これが一番もったいないと僕は感じています。「今」は良くても「未来」につながっていかないわけです。

たとえば、なぜ若い人たちが近年「いかがわしい」ものに反応しなくなったのか。そこをもっともっと真剣に考えたほうが良いと思います

以前も書いた「スーツvsパーカー」問題なんかにも顕著ですが、このパーカー側の反骨精神みたいなものが、今の若い人たちには全然刺さらなくなっています。特に、都内の若い子たちには全然刺さっていないご様子。

「若さ≒反骨精神」だと思って語ってしまいがちな僕らの世代ですが、それに引き寄せられるのは、スティーブ・ジョブズが生きていた時代を知っていたり。バンド世代だったりした、30代以降の特におじさんたちだけなんです。

これは、90年代に若者の代名詞だった「エヴァンゲリオン」が、いつの間にかおじさんたちだけが熱狂していたみたいな話にも、とても良く似ている。

僕らの世代が「学生運動」に反応しないどころか嫌悪感さえ感じていることにもよく似ている。


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そして、本来だったら参加してくれていたかもしれない若い世代が、スーツを着て猫を被ったコスパ・タイパ重視に向かって内心では社会から完全に距離を取るか、社会主義的な文脈に思いっきりコミットして、社会主義的な傾向にドンドン拍車がかかっていく。

もちろん、インターネットの世界には、もっともっと危うくていかがわしいものもいっぱいあります。そっちに流れてしまう若者も多いはずです。

つまり、いまの若い子たちが二極化していて、賢い子はどんどんコスパやタイパを目指して猫をかぶるようになるか、真正面から「社会主義」的な思想を訴えるようになります。

一方で、あまり賢くない子は一発逆転や下剋上なんかを信じて、よりトラップの多い夜や闇の世界に流れていく。

この道を選ぶように仕向けたのは、間違いなく今の30代〜50代の責任は大きいと僕は思います。

そして、本当は壊したいはずの既得権益の世界、その構造強化に加担してしまっている。多分ここに自覚症状がない。新しい新しいと言いながら、実はものすごく古いものとみなされてしまっている。それが本当にもったいない。

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本来は、もっとその中間的なスタンスが存在していたはずであり、そこに僕らは憧れていたはずです。その復興の兆しが数年前のweb3の登場だったはずなんですよね。

にも関わらず、また結局のところ資本主義の虚構性に取り憑かれて、自分たちの仲間内だけが富を得られる構造を作り出し、若い人たちにそれを白い目で眺めさせてしまっている。

そりゃあ若い人たちも入ってこないでしょうし、結局次の世代にバトンとしてつながっていかないということになってしまうんだろうなあと。

今日はなかなかに伝わりにくい話だったかもしれないとは思いつつも、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。