新年一発目に、「何を読むか」や「何を観るか」を大切にしているひとは多いかと思います。
個人的には、似たような感覚として、新年一発目に「何を聴くか」を最重要視していて、 そのうえで今年の元旦に選んだオーディオブックは、セネカの『生の短さについて』でした。
そして、それに続いて聴いたのが、マルクス・アウレリウスの『自省録』。
自分の中では、この2冊はセットで1冊のイメージです。
そしてどちらの本もきっと、死ぬまで生涯かけてずっと定期的に聴き続ける1冊になるんだろうなあと思っています。
何回聴いてみても、退屈さを一切感じさせないし、聴くたびに新たな気づきや発見がある不思議な本です。
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ちなみに、セネカは「時間の有限性」を強調し、人生を無駄に過ごさないための意識的な選択を説いてくれています。
時間を無駄にしないためには、自分の心の中で何に価値を置くかを熟考し、他人や外部の状況に振り回されないことが重要だと説いてくれています。
一方で、マルクス・アウレリウスの『自省録』も似たようなことを語っていて、自分の心を整え、外的な出来事に影響されずに行動するための「内なる自由」を重視している。
彼らの哲学は、主に「ストア哲学」と呼ばれるジャンルであり、外部の刺激に対してどのように反応するかが人間の真の品格を決定づけるという考え方に基づいています。
つまり、両方の本の主題や一番のメッセージというのは「外部からの「刺激」と自らの「反応」の間には「無限の自由」が存在している、そのことに対して常に自覚をし続けろ」という話だと僕は思っています。
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これは、あの有名な自己啓発書であるスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』の「第1の習慣」にも書かれているような話です。
ここまで読んで「そんな古臭い話はもう知っている。何を今更」というひとは多いけれど、じゃあ実際に実践できているひとはどうかといえば、本当に少ない。
もちろん、僕もそのひとりです。
だからこそ、1年に1回、年末年始のこの時期に、自らの行動を反省するように聴き返し、来年もまたこの「自由」を目一杯享受するために、気持ちを新たにしようと思って、定期的に聴いているんだろうなあと。
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この点、一般のひとは、刺激と反応の間には、自由意志のスキマなんてあると思ってもいない。
ましてや、過去に起きた出来事を、時間差であとから思い出したりして、ありありと脳内でそのときのことを想像し、その想像に対して、自ら自発的に怒り始めたりもする。
そして、それ自体は不可抗力、自分は何も一切悪くないと思ったりもする。大いなる他責思考です。
でもそれは、以前もご紹介した『唯識の思想』みたいな話で、「心内の影像(えいぞう)を心外の実境(じっきょう)と執するところに迷いと苦しみが生ずるのだ」ということなんですよね。
だから、過去の出来事を思い出して、それに対して怒りを感じるという行動の、なんと愚かなことなのか。
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これは以前、Voicyの中で為末さんも語られていたけれど、仏教における「二の矢を防ごう」という話も、まさに今日の話とつながる同じ話だと思っています。
僕らが本当の意味で、享受できる真の「自由」というのは、一の矢としての「刺激」に対して、「反応」という二の矢を防ぐことができること、人間にはいついかなる状況に置かれようとも、これが自らの「自由」として存在している。
この自由こそが、人間の尊厳を守り、真の幸福を築く基盤となっているはずなんですよね。
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たとえば、今回の年末年始は、日本中でインフルエンザが大流行していました。
そのため、多くのひとが家族や身近なひとたちがインフルエンザに罹患して、その結果、年末年始の予定が急遽変更を余儀なくされて、大きな被害や迷惑を被ったというひとはかなり多かったはずです。
そんなときに、どこか自分とは関係ない場所でインフルエンザをもらってきた家族に対して、イラッとしてしまうことも当然なわけです。
これが、ここで言う1の矢。その「刺激」に対して生まれる違和感や感情は、人間なら誰でも感じて当然です。
その1の矢の刺激、その痛みに対して最初からフタをしてしまうのは違う。1の矢は誰にでも刺さるものなのですから。
ただし、そこでどのような反応をするかは、自分自身で選べる。そこに僕らの真の自由がある。
わざわざイライラしたり苛立ったりして、反応として自らの外部にそれを表し、「家族と対立をして、険悪になる」という2の矢に自ら能動的に刺さりに行っても仕方ないわけですよね。
それが、「二の矢は防げる」という真の意味でもある。
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でも、多くの人はここを見誤ってしまう。反応のほうを寛大に寛容にしたいがゆえに、1の矢も刺さっていないふりをしてしまう。
もしくは、そうやっていつも「いい人」であろうとするひとが欺瞞的に見えたり、その刺激から生まれる感情を発露するこそが人間なんだと思い込み、そのまま反応として目一杯、不快感を顕にしてしまう。反応として外側に発露してしまう。
「ありのままが大事」という話を真に受けて、です。
さらに、第三の道として、その両者の苦悩を見て、その結果、反応から逆算した刺激をコントロールすることが自由だと錯覚をするひとたちもいる。
こちらは、典型的なハック思考です。でもそれは、誤解を恐れずに言えば、猿でもできる。
アドレナリンやドーパミン、オキシトシンなど、ホルモンが人間の感情を操作しているという話なんかは、実際問題その通りなんだろうけれど、それはこの刺激と反応の間に、自らの自由が存在しないと思ってしまっている状態でもある。
ホルモンにダイレクトに左右されるなら、猿と一緒です。
「ホルモンの奴隷」にならずにいようとすること、そのあいだの空白に対して自覚的であることこそが人間である証なのに、そのホルモンのハックばかりをしてしまうと、本当の自由を見失ってしまうということなんでしょうね。
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繰り返しにはなってしまいますが、刺激と反応の間には、自らの選択の自由が無限に存在している。
だからこそ、人間は猿と違って二の矢は防げるし、自分の反応によって、自らが傷ついてしまうような愚かな行為を回避することができる。
また、先ほどのインフルエンザの話に戻すと、迷惑をかける側としての気持ち、意図せず他者を「刺激」してしまうことだってあるわけです。
年末年始だからといって、ウィルスが人間に対して気を使ってくれるわけではない。
不可抗力で罹患をし、その結果家族の足を踏むことだってある。それでいちいち怒られたら、それはそれでギスギスしてしまうのは、当たり前です。
大事なことは、過失によって踏まれてしまった足に対して、「大丈夫。痛かったけれど、わざとではないということはわかっているから」と言い合える関係性。
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多様性がひろがり、分断が加速する現代社会は、お互いの文化感を理解しきれずに、そうやってお互いに不可抗力で足を踏み合うことが、一気に増える社会でもあります。
だからこそ、刺激と反応の間には「無限の自由」があり、その選択において故意と過失を切り分けて考えられる、そこに「お互いさま精神」が育まれているという信頼感が最初に明確に認識し合っていることの価値は、とてつもなく大きい。
過失によって相手に不快な刺激を与えてしまっても、それが故意ではなく過失である場合には、相手は苛立たないでいてくれるということも心から理解できているわけですし、それゆえに素直に謝ったり、違う機会に目一杯補填したり、お互い様で埋め合わせしたりしようって思い合えるわけだから。
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今年、2025年はきっと、防ぎきれない「1の矢」が山ほど飛んでくる出来事はたくさんある。
世界に目を向けてみても、混迷を極める国際情勢、AIの驚くほどの進化、それらがもたらす貧富の格差や、地震などの大きな自然災害の可能性。
そうやって混迷を極める時代には、本当に何が1の矢の刺激として起きるかなんてわからない。
でも、二の矢として反応するまでの間の自由、ここの自由を手放さない限り、僕らの真の意味での幸福は、決して誰にも奪うことはできない。
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だからこそ僕は、ここの「自由」をそれぞれに強く自覚し合い、みんなでしっかりと大事に守りながら問い続け、さらに丁寧に実践していける場をつくりたいなあと思います。
「僕らが手にしている富は見えない、彼らは奪えないし、壊すこともできない」と、椎名林檎が昔歌ってましたが、本当にそう思います。
あとは、実践あるのみ。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/01/07 13:35