僕は、昨年のパリオリンピック以降、NBAのハイライトをYouTubeでよく見てしまいます。
特に、昨年からNBAに挑戦している河村勇輝選手の試合はついつい注目してしまう。
NBA楽天のアンバサダーにも選ばれている彼の試合は、NBA楽天のチャンネルで、毎回2種類のハイライト動画がつくられます。
1本目は3分程度の得点シーン中心の映像で、そしてもう1本は、15分程度の出場時間内の包括的な内容です。
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で、この2本を見比べると、同じ試合とは思えないほど印象が異なるんですよね。
3分版では「こんなにも成功している」という印象を受け、15分版では「これだけミスしながらも、なおも果敢に挑戦している」という現実が見えてきます。
もちろん、1試合すべてを通して観る場合においては、また全く異なる印象を受けるはず。
で、この違いを見て、僕はハイライト動画の見過ぎることの弊害について最近よく考えるようになりました。
実際に見ていて楽しいのは、ハイライトであることは間違いない。
でも、そんなハイライトやショート動画ばかりを見ていると、歪んだ認識を持ち始めてしまうのだろうなあと。
具体的には「この人はいつも成功している」という錯覚に陥りやすくなる。それは当然と言えば当然で、他者の耳目を集めやすい成功シーンばかりを集めているのがハイライトなわけですから。
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しかし、どれだけ優れた選手でも、野球の打率で言えば3割程度と言われるように、バスケットボールの3Pシュートでさえ、トップ選手の成功率は40%前後。
つまり、2本に1本以上は外しているのです。それでも打席に立ち続け、シュートを打ち続けることが重要なわけです。
ところが、ハイライトを見た後に、自分が似たような状況に立つと、すぐに失敗を経験してしまう。
そうすると「やはり自分はあの人とは違うんだ…」と落胆してしまう。そこから、無駄なものを徹底的に排除したくなったり、同じペースで成功できない自分にうんざりしてしまうわけですよね。
でも、当たり前なんですが、それはハイライトやショート動画見過ぎたことが引き起こす錯覚なのです。
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で、この点、僕は最近つくづく思うのですが、「圧倒的な無駄を経由していないものは、自らの血肉にはならない」ということです。
成功した経験や、うまくいった経験、楽しかった経験なんかよりも、つまらない経験やガッカリした経験、絶望した経験など、ネガティブな体験のほうが、むしろ自分の糧となることが多いはずです。
じゃあ、それは一体なぜか。
きっとそれは、そういった経験を通じて「そうだったのか」と気付き、それを契機に訂正する力のようなものが、そこに働くからだと思います。失敗からの「なぜうまくいかなかったのだろう?」と考えて反省するフィードバックこそが、人を成長させるのです。というか、人間の意識の正体そのものとも言えるかもしれない。
ただし、その瞬間において、これはなかなか気づくことができるものではない。
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逆に言うと、どうすればこの退屈からの学びを僕らは得られるのか。
ここで注意したいのは、単純に「数撃ちゃ当たる」のアプローチではいけないということです。丁寧に、一球入魂の気持ちで取り組みながら、それでいて「失敗を恐れない」姿勢が大切なのだと思います。
子どものころというのは、僕らはソレを自然とやっていたんですよね。時間が無限にあるように感じられるため、とにかく何でも真剣に試してみることができた。
でも、大人になってからはそれがなかなかに難しくなります。成功する方法自体も次第に分かってくるため、確実な道を選びがちになる。
良くも悪くも、経験を重ねると「当たり」も見極められるようになっていきます。しかし、そこで選ばなかった「ハズレ」の中にこそ、自らの成長の糧が潜んでいる可能性が非常に高いというのが今日の僕の主張です。
そして、僕がオーディオブックを好む理由なんかも、ここにあります。
オーディオブックの場合は、作品を通しで聴けるため、退屈な部分も含めて包括的に体験できる。一番最初に切り落とされる部分が、ちゃんと残っている。
また、旅が好きな理由も同様で、退屈な時間や一見無駄に思える時間も必然的についてきます。
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この点、今年の年末年始に、また村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』を読み返したのですが、無駄なこと、退屈なこと、そのうんざり感が「文化的雪かき」という言葉に集約されていたことに気が付きました。
その中でステップを止めずに、踊り続けることの重要性が本書の中では語られてある。
で、村上春樹を村上春樹たらしめる経験というのは、まさにこういった「ハズレ」の中にあったのかもしれないなあと。
実際、村上さん自身が様々なエッセイの中で語っているように、子供時代には膨大な本を読み、あらゆる音楽を聴き、その過程で自分の感性を磨いていったと述べています。
その中には、きっと無駄に思える時間や活動も多かったのでしょう。インターネットもない時代なので当然です。
でも、そのすべてが彼の創作活動の基盤を築いたのだと思います。
たとえば、『意味がなければスイングはない』という本から少し引用してみたいと思います。
十代の初めから終わりにかけて、僕はまわりの誰よりも、多くの小説を読みあさった。その時期、僕くらいたくさんの小説を読んだ人間は、それほどはいないだろうという自負みたいなものがある。図書館にあった主要な本はほとんど読破してしまった。読み方もずいぶん深かった。気に入った本があれば、三回も四回も読み返した。そのように書物を読み、音楽を聴くことが(そしてときどき女の子とデートすることが)、十代の僕にとっての生活のほとんどすべてだった。学校?勉強?そういえばそういうものもあったかもしれない。よく覚えていないけれど。
これは本当にそう思います。
10歳〜18歳ぐらいのときに夢中になって、無駄かもとさえ意識せずに、触れ続けた体験が今の自分を形作っていることは間違いないなあと思いますし、それゆえに、なぜもっともっと無駄なことを突き詰めなかったんだろうとも、同時に後悔してしまう。
そして現代のように、ハイライトやショート動画のような常に興奮させてくれる”良いもの”が手元に届き続けるこの地獄、をなんと呼べば良いのか。
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だからこそ、他人の挑戦を単なるハイライトではなく、継続的な時間の流れの中で追うことが重要だなあとも思います。
継続的に繋がり続けるコミュニティの重要性なんかも、まさにここにある。
Wasei Salonに参加しているひとは強く実感していると思いますが、先日までは絶好調だった人が突然落ち込んでいたり、その逆に、深く落ち込んでいた人が急に活気づいたりするわけですよね。
ずっとゆるやかにつながり続けていると、そんな人間の波のようなものを、短くない時間軸の中で強く実感することができる。共に居続けることの意味が、初めてここで宿る気がします。
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自然と、そして負担なく、気づけばそれは「ハイライト」ではなくなり、そのひとと同じ時間軸や世間を生きることになる。
人生には多くの失敗があるし、生活がある。そんな「しみったれたこと」と思うんだけれど、むしろそちらが本当に大事なこと。結果を出す人間は、9割の無駄なことを本気で追求している。
その過程を知っているからこそ、お互いに信頼もできる。
人には誰しも波があることを知り、それを支え合えることは、顔の見えるコミュニティならではの強みだなあと本当に強く思います。
ちなみに、これが家族や同僚だと、少し距離が近すぎてしまう。自分に直接利害関係が発生してくるため、相手の波を、あるがままに見守ることはできなくなってくる。
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だから、Wasei Salonぐらいのコミュニティの距離感がいいんでしょうね。
小さな失敗の連続を、お互いに近すぎず遠すぎない場所から見守り合い、必要以上に介入もせず、淡々と見守り合うこと。
でもその中でのつながりが、お互いを支え合い、応援し合う関係性が自然とそこに築かれていく。それこそが、現代社会において、僕たちが本当に必要としているものなのかもしれません。
ハイライトの先にある、本当の姿を見守り合うこと。それでも、果敢に挑戦し続ける姿に触れられることが、コミュニティの大きな価値だと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。