「礼を尽くす」という表現を見たときに、何を思い浮かべるでしょうか。

敬語を使うとか文章表現の正確さとか、懇切丁寧に説明するとか、そういったことを思い浮かべるひとはきっと多いと思います。

でも、今AIの進化によって起きつつあることは、そのあたりがすべて全自動に置き換わりそうだということ。

最近発表されたGPTsなんかを見ていても、それは本当に強く思います。

個人に最適化されたAIを、自分専用にカスタマイズできてしまう。

そして、僕らが現状「礼」だと思っているものは、すべてそのAIが変わりにやってくれる未来がもう目の前まで来ています。

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そして、そうやってハックされて生み出された文章に、僕らはきっと「ありがたみ」を感じなくなるはずなんですよね。

言い換えると、別に礼を尽くしてもらっていると感じくなるはずなのです。

それは、僕らがYou Tubeで何かを懇切丁寧に解説してもらっている動画を見て実際にそれが役立っても、大してその配信者に感謝をしないのと一緒。

でも、それが「自分宛のビデオメッセージ」だったら、まったく違う印象になるはずですよね。

つまり、現代においては「宛先」が非常に重要なのだけれども、いま起きていること、そしてこれから必ず起こる変化というのは、この宛先が自分宛てにちゃんとカスタマイズされたものとして、大量生産されたものになるということだと思います。

そうすると、僕らは一体何を「礼」だと思うようになるのか。

ここが今日の主題になります。

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この点、そもそも、「礼」の機能とは一体何なのか。

そのような原点に立ち返って考えてみたい。

この点、以前もご紹介したことのある『使える儒教』という本の中で、安田登さんが非常におもしろくてわかりやすい表現をしてくれていました。

以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

「礼」の機能を一言で言えば、「小さなエネルギーで大きなものを動かすことができる」というものです。たとえば、神に祈りを捧げたら作物がたくさんとれた。これは小さなエネルギー(祈り) で大きなもの(豊作) が動いた一例です。そしてあるとき人は、この仕組みは人間にも使えるのではないかと気づいたわけです。これが、いま私たちが考える「礼」です。

たとえば、仕事がものすごく忙しくてお昼ごはんを買いに行く時間がなかったとします。そのとき同僚に、「すみません、お昼ごはんを買って来てもらえませんか?」と丁寧にお願いする。すると同僚は、席を立って、歩いて、オフィスを出て、近くの店に行き、そこでお弁当を買って、そして帰って来て、私のデスクまで持って来てくれた。     私は、お願いする言葉を発しただけ。使ったエネルギーはほんの少しです。対して同僚は、かなりのエネルギーを使っています。これがまさに「礼」の機能です。


そして、論語の儒教の中では、だから「礼」節が重んじられたのだ、と。

気持ちよくお互いに活動し合うために。

もともとは神への祈りが、人間に転用されたもの、それが「礼」だとされているのは非常に興味深い点ですよね。

そして今は、この礼が現代の場合はテクノロジーを用いた「ハック」に置き換わった。なぜならその相手が神から人間から、さらに今はアルゴリズムになったからです。

そして、そのハックによって生産性を高めることができるようになった。

現代において、従来的な「礼」が軽んじられるようになったのもそれが大きな理由だと思います。

IT長者のアイコニックな存在として時代の寵児として登場してきたホリエモンが、従来的な「礼」を重んじなかった理由は、それがまさに理由ですよね。

これはけっして偶然の一致ではなく、必然の出来事でもあるといえるのだと思います。

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でも、これは加速主義みたいなもので、これからはさらに、小さな力で大きな成果を出せるようになっていく。AIのおかげで。

そうすると、必ず礼節の形がまた変わると僕は思うのです。

そして結局、一周回っていかに相手に親身に寄り添ったのかということになるのではないかと思うんですよね。

ここが今日一番強調してみたいポイントです。

具体的に言うと、その費やした「時間」が肝になるということになりそうだなあと。

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これが喩えとして合っているかどうかはわからないですが「プレゼントの内容そのものよりも、プレゼントを考えてくれた時間が嬉しい」みたいな話にも非常によく似ているかと思います。

もう、プレゼント(贈与される言葉や表現)は、誰でも最良の物を作れるようになってしまったわけです。

そうなってくると、結局相手のことをどれぐらい考えたのかは、人間誰もが24時間しか持ち合わせていない以上、それ以上のレバレッジを効かせることは難しい。

もちろん、AIに自分のコピーロボットのようなことをやらせるというパターンもこれからは増えてくるとは思うけれど、もしそうだとしたら、逆により一層生身のひとつしかない人間の身体性の価値は増大していくに決まっていく。

今以上に、ひとりの生身の人間の時間が重要になることは間違いない。

つまりこれからは「ともにいる時間の過ごし方」、その価値が大きく変わると思う。

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ここで話は少しそれますが、以前もご紹介したことのある東畑開人さんの『ふつうの相談』という本の中で「時間の流れ」について、とてもおもしろい記述がありました。

今日の内容にも関連しそうなので、少しここでもご紹介してみたいと思います。

心の問題を解決する最終的な力は時間の流れにある。破局寸前であるかのように切迫していた不安は、時間の流れの中で少しゆるんだり、またきつくなったりを繰り返しながら、徐々に現実的になっていく。あるいは、人間関係の不穏さやあまりにひどい外的な事件も、時間によってあるべき状態へと落ち着いていく(もちろん、それ以上ひどくならないように、環境調整が行われていることが前提であるが)。そのようにして、心もまた少しずつ安定を取り戻し、新しい事態に対応していくことになる。このような外的現実と内的な心の働きを、臨床心理学は「自然治癒力」と呼んできたのだろうし、河合隼雄はさらに「時熟」と呼んだのであろう。


オーガニックな「とき」の流れ以上に、相手にとってかけがえのない存在になることってもはやないのではないでしょうか。

成るように成る、自然な時間の流れの共有が、これからはより一層、貴重になると思うんですよね。

たとえば、一緒に旅をするとか。

どれだけ言葉を尽くして短縮しようとしてみても、生産性を最大化させようとしてみても、このような「時熟」に勝るものはない。

というか、そういう時間を短縮できるものが世の中にドンドン増えていくからこそ、必然的に共に時間を費やすことにより一層価値が移り変わっていく。

もちろんそこに、複利の効果も生まれてくる。

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とはいえ、なんでもかんでも「時間」を費やせば良いというわけではないはずです。

その提示の仕方、カードの切り方、そのセンスも同時に求められる。

時間を費やされることほど重たいこともないですから。薬は最高の毒にもなり得るという話にもよく似ていて、取扱い注意の代物だったりもするかとは思います。

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あとは、全く別の視点から、意外と大事なことは、第三者による「承認」なんじゃないかと思います。

つまりは、重要になってくるのは「観客」なのかもしれないなあと。

第3者の目と言い換えても良いかもしれない。お互いに承認をし合うことの重要性以上に、礼を見守る観客としての第3者がいるからこそ、それが「礼」になる。変な話ですが。

でもこれは、礼が最大化されるときを考えると、必ずそこには観客がいる。だから、儀式を観客を必要として見守るというのもきっとそういう手指目的が根底にあったのではないか。

現代における、結婚式やお葬式なんかもそうですよね。両者の間だけで成立する礼であれば、わざわざそこに、証人や観客なんて立てる必要がないですからね。

なんというか、僕はこの第3者の承認というのも非常に大事な要素になってくると思います。もちろん大人数である必要はない。

契約や契りみたいなものが、これからドンドン無人化していくからこそ、公の場で交わされた約束みたいなものは相対的に価値が一気に高まると思うんですよね。

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最後にまとめると、従来的な礼の尽くし方は、これからはAIの登場によって、ことごとく変化していく。

その時に重要になるのは「時間」や「自熟」であり、第三者として承認してくれる観客の存在なんじゃないかと思います。

だからこそ、僕はサロンメンバーと旅にでかけてみたり、お互いの活動を見守り合ったりしながら承認し合う場、つまり、Wasei Salonのような場をいま必死で淡々とつくっているのかもしれないなあと。

AI時代に適した礼の尽くし方を実践する場として、です。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログをよんでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。