現代は、機嫌が悪い人間はひどく嫌われる世の中です。

権威的な態度で他者を服従させようとする、いわゆる老害と呼ばれるようなひとたちが、あからさまに機嫌を悪くし、子どものように拗ねることによって、他者をコントロールしようとしてきたことが、その大きな理由だと思います。

そこに対し、いま若い人たちを中心に、明確にノーを突きつけるようになった。それがSNSが普及した現代です。

というのも、これまでは各家庭や各会社、各地域やコミュニティの中で一人孤独に耐えるしかなかったものを、SNSの登場、具体的にはハッシュタグ運動のようなものが盛り上がることによって、マイノリティでも結束することによって発言力を持つようになったからです。

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この変化自体は、僕はものすごく良いことだと思う。

ゆえに、自分の機嫌は自分で取るためのハック術みたいなものが、ずっと持て囃され続けている世の中でもあります。

で、実際に、そのような方法はある程度は有効なわけです。つまり、ものすごく役に立つ。

でも、有効で役に立つがゆえに僕は少しマズいことも、現代には起きてきているなあと思っています。

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それは一体どういうことか?

ここが今日の主題になります。

この点、僕らはあからさまに機嫌悪く振る舞って、他者をコントロールしようとしてくる人に対しては、明確にノーを突きつけたい、ただそれだけであってすべての機嫌が悪い状態が、悪なのかと言えば決してそうではないと思います。

たとえば、一般的な男性の場合、「人間関係、健康、お金」の3つの要素を、健やかに保つことができれば、不機嫌とは無縁な生活をおくることができる。

ある程度の強い意志と、習慣の力をうまく活用しないといけないですが、一度その循環を作り出してしまいさえすれば、その維持継続は決して難しくはありません。

だけれども、たとえば、女性の場合、特に生理痛が重たい女性の場合、月に一度は、自分の意志とはまったく関係ないところで不機嫌に陥る状態が訪れてきてしまうわけですよね。

それでも、「常に機嫌よくあろう!そうしないヤツは、老害と一緒だ」みたいな世の中の空気というのは、なんだか僕は純粋におかしいなあと思うのです。

もちろん、ここでは男女の違いを強調したいわけではなく、個々人それぞれに、それぞれの事情があるはずだよねということを言いたいんですよね。

常に、機嫌が良いことを求め合う社会というのは、本当にそこまで良い社会なのか。

そんなことを僕は今一度ここで考えてみたい。

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確かに、常に機嫌が良いことは、本当に理想的なことだと思います。

でも、人間なのだから、機嫌が悪いときだってあって当然で、それは自分の意志ではどうにもならないときだってある。

人間は、どこまで行っても、ホルモンの奴隷なのだから。強靭な意志を持ってしてもなお、不可能な時だってあるでしょう。

にも関わらず、「常に機嫌よくあろう」という話は、「常に健康であろう」みたいな話で、「絶対に風邪は引いてはいけない」みたいな話に近いのかなあと。

繰り返しますが、悪いのはあくまで機嫌悪く振る舞って、相手を恣意的にコントロールするような人間です。彼らが批判されるべきであって、上述したような人々まで、不機嫌が理由で排除されるいわれはないだろうなあと思ってしまいます。

たとえば、体調を崩して1週間程度会社を休んだからって、無断欠勤した人間とは異なって「即刻会社を辞めてください」とはならないはず。それと一緒だと思います。

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風邪程度で、相手を「悪」だと決めつけて、その結果として、すぐに棲み分けるという判断はおかしいなあと僕は思います。(万が一病に陥ったらそれは治療の対象です。)

そして、現代という社会は本当におもしろくて、多様性や政治的正しさみたいなことを建前では掲げつつも、相手の機嫌が悪い状態に当たってしまった瞬間には、すぐに一発アウト、一発退場の世界線が本当にいたるところに増えたように思います。

しかも、そういうときに限って、ものすごく人当たりよく、優しい態度によって、あたかも相手の尊厳を強く尊重するかのごとく振る舞いながら、「私達は意見が違うのだから、別々に過ごしましょう、そのほうがお互いに機嫌よくいられる」という理由によって、すぐに棲み分けようとする。

そして、大きな壁をつくりだして、お互いに隔離しあう。

それは今のイスラエルの戦争なんかを見ていても本当に強く思います。あとは映画『月』でも描かれていた通り、障害者施設なんかもまさにそうですよね。

でも、そうやって棲み分ける世界というのは、実は本当は不安定な世界だと思います。

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もしかしたら、この人とは意見が違うかもしれないけれど、話を聞いてみようという開かれた態度が、きっと僕らには必要なのだと思います。

ただ、そうすると必ず僕らは「隘路」に迷い込む。これは絶対です。

当然ですよね、お互いの「正義」が決して満たされないわけでもなく、解決策の糸口も見つからないのだから。

ちなみにこの「隘路」とは、以前もご紹介した朝井リョウさんの『正欲』の文庫版の「解説」部分に書かれてあったお話です。

非常に重要な話だったと思うので、再びここで再掲しておきます。書き手は、東畑開人さん。

物語の力は 隘路 でこそ発揮される。理念が行き詰り、論理が 破綻 するとき、思想や学問ならば、そこで立ち止まるしかないけれど、小説はその先に進むことができる。矛盾を抱えたままで、それでも生きようとする人間を描くことができるからだ。

(中略)

正欲を「正しく」運用するしかないのだろうか。つまり、同じ正欲をもつ者同士で小さな社会を作り、異なる正欲の侵入から身を守るのが 唯一 の解なのだろうか。     そうじゃない。朝井リョウの意地悪の奥には深い愛が潜んでいる。彼は別の可能性を 示唆 するべく、もう一つの小説的大逆転を終盤に仕掛けている。


そして必要なのは、東畑さんいわく「正交渉」だと。

「正欲」のすごかったところは、この「正交渉」を描いていたところ。理論を戦わせるロジックの思想、その到達点からは棲み分ける発想しか生まれてこない。

しかし、そうではなく、隘路に迷い込んでもなお、どうやったら人と人とが共にいられるのかということが、今僕らに突きつけられている課題であって、それを描いていた作品でもあるのだろうなあと。

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そして、そのうえで非常に印象的だったのは「ずっと共にいるから」ではなくて、「いなくならないから」という言葉選びがなされていたこと。

今回、映画版「正欲」の中でも、このセリフは非常に印象的な形で用いられていましたが、僕はこの言葉にいま大きなヒントがあるなあと思っています。

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つまり、「居る」という作為ではなく、「いなくならない」という不作為なんじゃないか。

「一緒にいる」と「いなくならない」というのは、客観的な状態としては同じような状態の話なんだけれども、ここは圧倒的に差異があるなあと思う。

たとえば、このWasei Salonも別に仲良しグループをつくりたいわけじゃない。

前々から書き続けているように僕は、「各人が犀の角のように、ただ一人歩め」と強く思っています。

でも、一方でいなくならないから、とも同時に思っている。

それぞれが、それぞれの持場で頑張っている。そして「いつでも相談に乗るよ、あなたのことは気配の中でちゃんと認知している」そのような状態が、個人的には一番理想的なのではないかと思っている。

ただし、現代の世の中というのはベタベタといつも一緒にいるか、もしくは明確に棲み分けてしまう、その二者択一を必ず迫ってくる。

でも、きっと大事なのはその間にある距離感なんです。

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そのためには「いなくならないから」ぐらいの距離感がきっと言葉にすると一番近しいイメージなんじゃないのかなあと思うわけです。

もちろん、それでも何か言葉が足りないような感じがするからこそ、僕らは足掻くし、藻掻くし、何かを相手と共有しようと、必死になる。

その空回りする過程も含めて、いま本当に大事なことだと思っています。

何より、この人間の機嫌の悪さや空回りみたいなもののほう、もっと厳密に言うとそのズレやブレや、エラーみたいなものこそが、AIと比較したときの「人間らしさ」にもなってくるはずですから。

常に機嫌が良いAIというのは想定可能ですが、不機嫌なAIというのは誰も欲さないでしょうからね。

人間の個性、その特権とも言える。

だからといって不機嫌が良いとは思わないですが、それが”自然”なんだろうなあと思います。自然は、AIにはつくれない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。