最近よく思うことは、今の若い人たちを中心に、現代人はインターネット上で自分がいま見ているコンテンツは、どのような雑誌に載っているのか、それを予測できなくなってきているのかもしれないなと思う機会が増えてきました。

いま見ているコンテンツが、お硬い月刊誌なのか、それともゴシップ中心の週刊誌に載っているのか。

他にも、地上波なら何時ごろに放送されているような番組なのか、街だったら一体どの街で主に取引されている商品やサービスなのか。

ーーー

そんなふうに、従来ならどこにゾーニングされていたのかがわからなくなってきている場合が多いんだろうなと思います。

なぜなら、マスメディアに一切触れなくなり、最初からスマホという端末、そしてXやYouTube、TikTokやnoteなど、すべてのコンテンツが同じプラットフォーム上でやり取りされてしまっているからです。

ーーー

そう考えると、従来のマスメディア時代は、良くも悪くもこの嗅覚が養われていた時代でもあった。

各媒体ごとの特性をざっくりとでも把握し、そこに傾向と対策を見定めるだけの感覚を皆が身に着けていた時代だったなと。

また、たとえ同じ雑誌の中で掲載されていても、巻頭特集に載っているような内容なのか、それとも後半の白黒ページなのか、もしくはただの広告の通販ページに載っているような内容なのか。

そんな一冊の雑誌における「空間把握能力」って、僕らは自然と養われていたなと思う。

テレビにおいても、放送されている時間帯やチャンネル、出ているタレントや芸人さんの種類によって、どれぐらい信用してもいい内容なのかはある程度判別できました。

でも今は、それが完全にわからなくなってしまっているような状態です。

ーーー

そして、評価や信頼度に値するものは、再生回数やフォロワー数、いいね数によって顕在化されているだけ。

それぞれのコンテンツが完全にアンバンドルされて、好きなようにつまみ食いできることは良かったことかもしれないけれど、すべてがフラットなUIの中にコンテンツごとに並べられている弊害、その危険性もあるんだろうなと思います。

具体的には、一番信頼に値する人物が書いた文章と、一番ついていってはいけない人間の投稿が、まったく同じサイズ、まったく同じフォント、同じデザインで並ぶことの恐ろしさです。

どちらも、同じnoteのUIの中にある。

このように、すべての「怪しさ」みたいなものが脱臭されたデオドラントされた形で提供されているのが、まさに今の社会だなと感じます。

ーーー

で、これは完全に余談ですが、先日プラットフォーム・noteに詳しいひとと会食をしている最中に、noteのある種の「えげつなさ」の話で盛り上がった。

noteで情報商材のようなコンテンツがバンバン売れているということは有名な話ですが、noteではギャンブルカテゴリーも、実はかなり強いらしいです。

たとえば、競馬カテゴリーの有料記事の売上がえげつないらしく、それゆえに競馬カテゴリーも丁寧に分けられていたりする。

これは一般的なnoteのフワッとしたイメージ、具体的には「広告なくて、文化的で、なんならちょっとほぼ日っぽい」みたいな印象とは大きくかけ離れています。

表面的にはうまくそんな一面を作り出しながら、その裏側というか奥のほうではギャンブル商材で稼ぎまくっているわけですよね。

DMMとかサイバーエージェントとか、わかりやすくそっちに振り切っている企業は見た目通りわかりやすいけれども、こんなにも表面と裏側のイメージの乖離が激しいサービスはなかなかないし、それがきちんと成功していて、改めてnoteはすごいサービスだなあと思わされます。

ーーー

で、きっと僕らは本来、UIから受ける印象は実はかなり大きかったんだろうなと思います。

ひとつの雑誌単体ではなくとも、それと似たようなカテゴリーが集まる「棚」が醸し出す雰囲気のようなものに対して敏感だった。

でも今はそれがすべて同列、YahooニュースやSmartNewsに転載されたら、どの媒体の記事かもよくわからない。

すべてが同じUIの見た目です。ここが本当に恐ろしいなと思う。

だからこそ、もしそれが物理コンテンツだったら、どの媒体、どの街で起きている話なのか、その「禍々しさ」も含めて実感してみようと努めてみることは、結構大事なことだと思います。

ーーー

似たような感覚として僕が、散歩が好きだったり、旅をしたりするのが好きな理由もここにある。

実際に現地を歩いてみることの意義、もっと言うと、その街までの距離、その「参道」を実際に歩いてみること、その変化するグラデーションなんかも含めて、実はめちゃくちゃ大事。

その道すがらには、間違いなく先人たちの残してくれた知恵や、無意識レベルの防衛本能が働いているなと思うからです。

たとえば、吉原の「見返り柳」とかは有名。

ほかにもあからさまな橋があったり、門があったり、道が意図的に曲げられていたり、ありとあらゆる手段を使って「ここからは異世界ですよ」というアラートが、至るところに結界のように張り巡らされている。

わかりにくいひとは、『千と千尋』の中の橋やトンネルを想像してみてもらえるとわかりやすいはずです。

ーーー

だから「あっ、ここからは明確に『あちら側』なんだ」というこがわかるし、あちら側ということは、必ずこちら側に帰ってこないといけない場所だということもよくわかる。

決して長居をしてはいけない。

様々な土地のそんな場所を見物しながら、行ったり来たりを繰り返していると、自然と人類共通のその温度感や匂いを感じ取る嗅覚も自然と身についていきます。

東京においては、ことごとくそういう場所は、昔は沼地だったという話は有名な話で、これも実際に歩いてみるとよく分かる。

コンクリートですべてが埋め固められていても、やっぱり沼だった面影がある。低地で水害が多く、何かが集まり淀んでいる感覚があるんですよね。

でも、人はそういう場所にこそ、惹きつけられてしまう。まさに文字通りの沼なわけです。

それは無自覚な人々が週刊誌の棚や、嫌韓、嫌中のような陰謀論、スピ系のコーナーに引寄さられる力学と一緒なんだろうなと思います。

ーーー

で、最近、ピエール・バイヤールの名著『読んでいない本について堂々と語る方法』を読み終えました。

余談ですが、この本は以前は電子書籍化されていなくて、最近調べたら電子化されていてやっと読めた。世間の評判通り、とてもおもしろかった。

で、この本の一番の核心部分だと僕が感じた、<共有図書館>のお話。

今日の話にも見事につながるなと思うので、以下で本書から少し引用してみたい。

ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを共有図書館)と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この<共有図書館>を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。


僕らは、本の内容というより、このやり取りをしている。

で、この視点がまさにSNSで壊されてしまった「空間把握能力そのもの」だなとも思ったのです。

ーーー

また、本書の中では、まれにみる読書家であり博識の人だったオスカー・ワイルドの話も紹介されていて、ワイルドは読まないことを推奨した作家でもあったと書かれてありました。(奇しくもまたここでも、オスカー・ワイルドの話)

ワイルドは、このイメージとしての<共有図書館>を、3つのカテゴリーに分けたそうです。

第一のカテゴリーは、読むべき書物のカテゴリー。

第二は、再読すべき書物のカテゴリー。

そして、第3が一番おもしろくて、これは本書から直接引用してみます。

”これら二つは誰もが考えつくようなカテゴリーだが、ワイルドはこれらに加えて第三の、意外なカテゴリーを提案している。すなわち、読むべからざる書物のカテゴリーである。
ワイルドによれば、読むべからざるものを教えるというのは、大学の公的な使命のひとつにしてもいいくらい重要なことなのである。「この使命は、われわれのこの時代、すなわちあまりにもたくさん読みすぎて感嘆する暇もなく、あまりにもたくさん書きすぎて考える暇もない現代では、焦眉の急なのだ。現代の混沌たる教育課程から「悪書百点」を選び出して、その目録を発表しようとする人は誰でも、本当の永続的な恩恵を若い世代に与えることになるであろう”


ーーー

現代人、特に若いひとたちは本屋さんや物理的な図書館に行かなくなってしまったことで、この<共有図書館>のイメージが頭のなかに存在しない。

結果として、第三のカテゴリーである、読むべからざるもの、近寄ってはいけない棚に並ぶはずのウェブ上のアンバンドルされたコンテンツも見分けがつかなくなっている。

せっかく先人たちが整理してくれたもの、そのメタ・メッセージとしての額縁に気づけないでいる。

ーーー

「ソレに触れるな」ではなく「ソレに触れるときには注意しろ」という気配としての価値があったはずで、そこにこそ、昔は学びがあった。

一切届かないようにするのではなく、一定の距離を取って接すること。

猫のように、警戒心を持って触れるもの。

でも今は、腹を出している犬のところに突如そんなコンテンツが現れるし、それが警戒するべきものであるといことも、わからなくなってしまっているのも今の世界です。

本当に一寸先は闇だなと思います。

ーーー

スマホや各種SNS、noteのような一見するとクリーンに見えるUIによって、この<共有図書館>、人類が作り出した知の体系、近づいて良いものと、近づいてはいけないものの直感が、完全にぶっ壊されたのがまさに今。

そしてこれからは、そのメディア(媒介)が、すべてAIになっていくわけです。

スマホは能動的に探しに行かなければ見れなかったわけだけれど、AIは日々のコミュニケーションにおいて受動的に使われる。

言い換えると、一番信頼に値する情報を与えてくれるAIという存在が、次の日には一番信頼してはいけない情報を与えてくるような状態になるかもしれないわけですよね。

喩えるなら、ドラえもんがのび太くんに対して、ギャンブルの攻略本を手渡すようなもの。

オープンAIはそれをやらなくても、イーロン・マスク率いるXは、必ずそれをやってくる。

そうなったときに一体、何が起きるのか。なかなかに恐ろしい未来が待っているなと思います。

いつもこのブログを読んでいる方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。