僕らは、目の前にいる相手に「良い面」と「悪い面」があると、ついついそれを本音と建前のように受け取ってしまいがち。

そこには、必ずヒエラルキーが存在すると信じてしまい、裏として現れたものが、そのひとの「本性」の部分であると理解してしまう。

しかし、果たしてそれは本当に正しいのでしょうか。

これは、人間が持ち合わせているバイアスのひとつに過ぎないと思います。

だからこそ漫画やアニメでは、そのバイアスをうまく利用して「本体に見えるほうが実は本体ではなかった」と描写されることも多い。

他にも、世の中にはこのバイアスをうまく利用したものが遍く存在し、神社の本殿は必ず一番奥にあるし、会社の社長室も一番奥にある。

そんな社会通念が、僕らのバイアスをより一層強く助長してしまっている。

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でも実際は、「奥」や「裏」に本質があると勝手に思い込んでしまっているだけで、実は「表」だってやはり、その人の本質そのものだと思うのです。

たまたま、それぞれの周囲の環境において引き出されるそれぞれの「私」があるだけ。そしてそれに抗えるのもまた「私」であると。

だからこそ、表も裏も同時に成立しうると思うのです、

そこにヒエラルキーなんかは最初から存在しなくて、円環をなしているような感覚で捉えるほうがきっと正しい。

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哲学者・西田幾多郎の「絶意矛盾的自己同一」なんてカッコいい言葉を持ち出すまでもなく、

すべてが本人であり、また本人でないように、表と裏もまた、本人であり本人でない。

そうやって相手の本質を捉え合うことができるようになれば、対人コミュニケーションや、その集合体であるコミュニティのかたちもまた大きく変化してくるのではなかろうかと。

わかりやすい王道のストーリーやフィクションに触れ過ぎてしまった結果、そこから生まれたバイアスに惑わされてしまわずに、もっともっとフラットに観察したいと思う今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの発見につながったら幸いです。