誰もが一度はやったことがある、椅子取りゲーム。

それまで教室の隅っこにあって、誰も見向きもしていなかった椅子を教室の中心に置き、「この椅子に座る権利を、みんなで争いましょう」とゲームを始めた瞬間に、全員が一斉にその椅子を奪い合じめる。

よくよく考えると、本当に不思議なゲームです。

それまでは誰も見向きもしなかった椅子なのに、それを奪い合おうと言った瞬間に、全員が鬼の形相に変わり、必ず勝者と敗者を生んでしまう。

そして、この椅子取りゲームと同じことが毎日この世界で起こっている。この世の中がすべて椅子取りゲームの世界だと言っても過言ではないと思います。

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さて今日は「そんな椅子取りゲームの世界が良くないのだ!」なんて野暮な批判はしません。

「世界が椅子取りゲームであることは間違いない事実なのだから、ギリギリまで実際にゲームを始めないことが大事なんじゃないの?」という話をしたいです。

言い換えれば、「誰が座るのか」まだその権利関係が社会的に確定していないフワッとした状態のまま、キープしておこうと。

これは、最近流行りのコモンの概念や社会的共通資本のような話でもありません。つまり「椅子を共有しましょう」と言っているわけではない。

もちろん「奪い合わず、分け与えよう」と言った道徳的な提案でもない。

むしろ、観念の中で「あれは完全に私のものだ」と信じきっているひとがこの世界に何人いたって構わない。

その権利関係が、現実に明確になってさえいなければいい。

現物はたった一つしか存在していないとしても、観念の中では全員が「私が所有しているのだ」と信じきっている状態だって原理的にはあり得るのだから。

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でもそこで、観念と現実の一致を求めて、その権利関係を明確にさせようとしてしまうと、有限のものをみんなで一斉に奪い合わなければならなくなる。

つまり椅子取りゲームが実際に始まってしまう。

たとえばわかりやすい例としては、地震の際にミネラルウォーターが売り切れてしまったり、有事の際にトイレットペーパーが売り切れてしまったりするのも、全く同じ論理だと思います。

「いつでも買える、いざとなったら私のもの」とみんなが思っているから、みんな市場から買い占めないままでいられる。

このように権利関係が不明確なまま、ずっと先送りしている状態だから、この世界から足りなくならないわけですよね。

しかし、そんな世界観の中で、誰かが途端に「これは私のものだ」と実効支配を始めると、商品が市場から一斉に消えてなくなってしまう。

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だからこそ日本人は、常に権利関係を不明確、不確定状態にしておき、その権利確定させる行為を「みっともない」や「はしたない」という一見すると非文明的な手法(批判的なまなざし)をお互いに向け合うことで歯止めをしてきたわけです。このあたりは『日本人の法意識』という本で詳しく語られています。


では、なぜ権利関係を現実で確定させることがいけないことなのか。

絶対に弱いものに皺寄せがいくから、です。

上述した椅子取りゲームの話で言えば、ズル賢くない子や、運動神経が悪く体格が華奢な子、そもそも学校にも来れず家で寝たきりの子は、ゲームにさえ参加できません。

でも現実はどうでしょう、「弱いものを救済する」という名目のもと、各所で新たな椅子取りゲームが毎日繰り広げられてしまっている。

「みっともない」や「はしたない」のような従来の価値観が、もう時代にそぐわないことは間違いないですが、権利関係を明確にすることで本当に弱者救済に繋がるとは到底思えない。

だからこそ、従来のまなざし以外の新たな方法で、権利関係を確定させない状態をキープする方法を模索することが大事なのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。