昨日こんなツイートをしてみました。
「どうせあいつはこの地域からいなくなる」「あいつはこの仕事がなくなっても困らない」といった陰口のように、先行きが不透明になればなるほど、切羽詰まった人間は一蓮托生であることを求めてきます。
頭では分散した方がいいと思いつつ、このような切迫した言葉に責任感を感じてしまい、集中に向かう若者も多い。
とはいえ、30代以下の若いひとたちはもう分散一択だと感じます。
移行期だからこそ、集中して一緒に散る美学も一方では存在すると思うけれど、ジャンル問わず分散への流れはもう不可逆。
だとしたら、それ以降も生き抜いていかなければいけない次世代が担う宿命として、新しい生き方のほうを模索しないといけない。
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そしてここからが今朝、新たに考えたことです。
思うに、一蓮托生はたしかに外形的には非常に美しい「ストーリー」に見えるのですが、その実態は変化に対して非常に脆い。
みんなが頼っている共同体(企業や地域)に何か大きな損害があった場合に、全員が共倒れになってしまいます。
つまり、どれだけたくさんの優秀な人間が集まっていたとしても、全員がそこだけに依存していたら、すぐに壊滅してしまう。
だから、本来は共同体の中でも、できる限り「分散」していたはずなのです。
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たとえばわかりやすい例として、農村を例にとって考えてみましょう。
同じ土地で全員が同じ作物を育てていた場合、そこに天災や害虫が発生してしまったら、その土地すべての作物がダメになってしまう。
でも、それぞれが違う作物を育てていたり、酪農をしていたりすれば、ひとつがダメになっても、全体ではちゃんとリスクヘッジができている状態になる。
このように、地域共同体というのはそもそも最初は「分散」の発想だったはずなのです。
そうやって全員が、同時に壊滅的な被害を被ってしまわないように互いに助け合っていた。
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だとすれば、現代においても、さらにその分散先を物理的空間外に広げていったほうがいい。
そしてお互いに、少しずつ助け合ってリスクヘッジをしていく。
自分というひとつの円の上に、それぞれ半分ずつ重なる円を360度複数重ねていくように。
そのうえで、重なる他者を助けた時には逐一、対等な見返りをもとめない。
そもそもの目的は、目の前の相手から等価交換で返してもらうことではなく、みんなで生き残っていくことなのだから。
等価交換というのは、もう一生会わないと想定する相手と縁を切る行為にほかならない。
分散して、さまざまなところに「借り」をつくり、それを必死で返しながら、さまざまな所に「恩」もつくり、そっちはすぐに忘れること。
それが結果的に、個人も共同体も同時に生き残っていく方法なのかなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。
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2022/02/09 11:54